文久3年の個別の騒乱に入る前に、文久2年12月9日に「国事御用掛」(国事を議するために設けられた役職 / 国事御用書記の改組)のことに触れておかねばならない。 安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられていた朝彦親王(尊融入道親王)が還俗して、国事掛の首席となったことで佐幕・尊王の対立を増長させた。徳川開幕以来、皇族は伏見・有栖川・閑院・桂の四家と定まっていたが、新たに「中川宮」を創設し、四家を五家に増やして幕府の圧力を天皇の権威が跳ね返した例証となった。中川宮は京都守護職・会津藩主松平容保や薩摩藩と手を結び、急進的な攘夷派であった公卿や長州藩を京から遠ざけようとして、「八月十八日の政変」(文久 …
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