【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
前稿の坂本龍馬に続いて、「維新三傑」のひとり西郷隆盛をみてみよう。 「徳川慶喜が虜になった男」とも称されている西郷隆盛は、文政2年(1827年)、鹿児島城下の下鍛冶屋町山之口馬場に、在村郷士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれ、幼名小吉、16~17歳頃には吉之助を名乗った。 雅号は南洲、変名は菊池源吾、大島三右衛門など複数があった。 在村郷士は、薩摩藩での身分は普段の暮らしでは農民であったが、十等級の下から二番目であっても、れっきとした武士であり、自尊心は強かった。 弘化元年(1844年)、数え歳18歳になった西郷は、郡方書役助の役職に就き、農村を回って年貢を取りたてる末端の役人となった。 …
「…好は、私に母の飯盒を洗いよく乾かすようにと言った。『それがお母様の骨壺よ。』時計が九時を鳴らすと、私たちは荷物を背負って火葬場へ向かった。到着するとすぐに羅南からずっと持ってきた箸で、私たちは丁寧に母の小さな遺骨を飯盒に入れた。…」(「竹林はるか遠く」より引用―以下引用は書名のみ) 飯盒を母親の骨壺にしなくてはならなかった姉妹の悍ましい事情を、史実に従って振り返ってみたい。満洲からの引き揚げを記した手記や歴史書に、「竹林はるか遠く」と同じような悲惨な記述が多い。また、その責を一様に関東軍に求める声も少なくない。 確かに、「精鋭を誇った関東軍が先を競って逃げている。実に情けない姿である …
『あの無謀な戦争…』 『勝てる見込みのないバカな戦争…』 『日本の侵略戦争…』 大東亜戦争(第二次世界大戦)に浴びせられる悪意とプロパガンダ効果を目指したレッテル貼は数え挙げればキリがない。戦場に斃れた英霊の方々や、100万人を超えると云われる空襲や原爆投下で亡くなられた無辜の民に対する哀悼の意、或いは惜別の情がその源であり、凝視できない懊悩が原因であればまだ救われるのだが、東京裁判史観(自虐史観)に迎合し、戦勝国に対して卑屈な民族に成り下がったことによるものとすれば、やり切れない。 そして、更には自国の歴史を丹念に辿る努力さえも置き去りにして、近視眼的な屁理屈を繰り返しながら、鹿鳴館文化に …
我が国日本は?と云えば、1853(嘉永6)年の浦賀へのペリー来航が端緒として有名だが、その80年近く前(1779年)から頻繁に「異国船」が通商要求の為に姿を現していた。 ペリー来航の翌年(1854年)、日米和親条約が調印され幕府の鎖国政策は終了、4年後の1858(安政5)年には、在日総領事のハリスに恫喝されて、日米修好通商条約なる不平等条約を押し付けられ、イギリス・フランス・ロシア・オランダからも同様の条約を結ばされた。(安政の五か国条約) 北米で先住民から土地を収奪したのと同じ本能によって、白人自作の「国際法」に基づいた条約によって完成を見たのであったが、周囲を海に囲まれているという固有の立 …
前回の最後に列挙させて頂いたアメリカの弛まざる努力、言い換えれば排日と内政干渉によって、日本民族が「鬼畜米英」というスローガンを確立したことは、当時を生きていない私にも容易に想像ができる。 「ABCD包囲網」や「対日石油禁輸」、ハル・ノート手交がF・D・ルーズベルトにとって単なる仕上げでしかなかったことは、年表を丹念に振り返れば明白だし、今や定説ともなっている。 もちろん、これら一連の対日政策の延長線上に「東京裁判」があり、厄介なことに昭和27年4月28日まで及んだ「占領の置き土産」は現在に至っても健在であり、あろうことか後生大事にGHQのプログラムを守り続け、「鬼畜米英」に迎合し続けることが …