【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
「最後のサムライ」と称された河井継之介は、幕末(~慶応4年)の長岡藩の人物(文政10年:1827年1月27日~慶応4年:1868年10月1日)で、藩内でも中堅どころの家柄であり、慶応4年(1865年)には郡奉行に抜擢されて、当時の情勢不安の中で藩制改革を主導し、役職を重ねながら藩の実力者となってゆく素地があったと考えられる。 継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格加判」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。ちなみに『長岡市史』では町奉行は番頭兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い。 …
「…好は、私に母の飯盒を洗いよく乾かすようにと言った。『それがお母様の骨壺よ。』時計が九時を鳴らすと、私たちは荷物を背負って火葬場へ向かった。到着するとすぐに羅南からずっと持ってきた箸で、私たちは丁寧に母の小さな遺骨を飯盒に入れた。…」(「竹林はるか遠く」より引用―以下引用は書名のみ) 飯盒を母親の骨壺にしなくてはならなかった姉妹の悍ましい事情を、史実に従って振り返ってみたい。満洲からの引き揚げを記した手記や歴史書に、「竹林はるか遠く」と同じような悲惨な記述が多い。また、その責を一様に関東軍に求める声も少なくない。 確かに、「精鋭を誇った関東軍が先を競って逃げている。実に情けない姿である …
『あの無謀な戦争…』 『勝てる見込みのないバカな戦争…』 『日本の侵略戦争…』 大東亜戦争(第二次世界大戦)に浴びせられる悪意とプロパガンダ効果を目指したレッテル貼は数え挙げればキリがない。戦場に斃れた英霊の方々や、100万人を超えると云われる空襲や原爆投下で亡くなられた無辜の民に対する哀悼の意、或いは惜別の情がその源であり、凝視できない懊悩が原因であればまだ救われるのだが、東京裁判史観(自虐史観)に迎合し、戦勝国に対して卑屈な民族に成り下がったことによるものとすれば、やり切れない。 そして、更には自国の歴史を丹念に辿る努力さえも置き去りにして、近視眼的な屁理屈を繰り返しながら、鹿鳴館文化に …
我が国日本は?と云えば、1853(嘉永6)年の浦賀へのペリー来航が端緒として有名だが、その80年近く前(1779年)から頻繁に「異国船」が通商要求の為に姿を現していた。 ペリー来航の翌年(1854年)、日米和親条約が調印され幕府の鎖国政策は終了、4年後の1858(安政5)年には、在日総領事のハリスに恫喝されて、日米修好通商条約なる不平等条約を押し付けられ、イギリス・フランス・ロシア・オランダからも同様の条約を結ばされた。(安政の五か国条約) 北米で先住民から土地を収奪したのと同じ本能によって、白人自作の「国際法」に基づいた条約によって完成を見たのであったが、周囲を海に囲まれているという固有の立 …
前回の最後に列挙させて頂いたアメリカの弛まざる努力、言い換えれば排日と内政干渉によって、日本民族が「鬼畜米英」というスローガンを確立したことは、当時を生きていない私にも容易に想像ができる。 「ABCD包囲網」や「対日石油禁輸」、ハル・ノート手交がF・D・ルーズベルトにとって単なる仕上げでしかなかったことは、年表を丹念に振り返れば明白だし、今や定説ともなっている。 もちろん、これら一連の対日政策の延長線上に「東京裁判」があり、厄介なことに昭和27年4月28日まで及んだ「占領の置き土産」は現在に至っても健在であり、あろうことか後生大事にGHQのプログラムを守り続け、「鬼畜米英」に迎合し続けることが …