
弥生時代は「水田稲作の伝来」によって、安定した食料が確保できるようになりました。つまり、定住して安定した暮らしが可能になったということです。
にもかかわらず、軍事施設である「お城」の機能を備えた「環濠集落」がつくられたのはなぜでしょうか?
弥生時代の前時代である縄文時代と比べてみましょう。縄文時代は「狩猟」を生きるための手段としていた時代です。獲物がなくなれば他の場所に移り住む「移住生活」をしていました。
獲物がすぐに見つけられるよう、小高い場所に竪穴式住居をつくったり、生きていくために必須の水がある水辺近くで暮らしていたそうです。
青森県の三内丸山遺跡では、それまでの縄文時代のイメージを大きく覆す大発見がありました。こちらの遺跡では、移住生活ではなく人々が「定住」して、大人数で暮らしていたことがわかったのです。また、発掘されたものから、遠くは北海道に暮らす人々と物々交換で交易をしていたこともわかってきました。

なぜ環濠集落はつくられたのか? その答えは「人々の暮らしと財産を守るため」と考えます。稲作によって米が実り、それを蓄えることで、米は「財産」になります。その財産(米や収穫物)を守るためにつくられたのが「高床倉庫」です。
高床倉庫に備えた「ねずみ返し」の名前のように、はじめ財産を脅かす対象は動物たちだったのかもしれません。けれど、財産を奪おうとする敵は、動物たちだけではありませんでした。次第に動物よりも恐ろしいヒトが相手になっていきます。
稲作が盛んになると、収穫量の違いから、みんなで分かち合い暮らしていた縄文時代にはなかった、貧富の差が生まれてゆきます。収穫量の違いは土地や水の善し悪しに左右されるので、稲作に適した土地や水をめぐる争いが起こります。
弥生時代は、稲作によって安定した暮らしがもたらされた反面、人々が利権のために傷つけ合う争いの時代でもありました。福岡県で発見された石製の剣が刺さった人骨からも、武器を使うほどの激しい争いがあったことがわかります。
このような争いから、人々の暮らしの安全と財産を守るためにつくられたのが、防衛機能を持つ環濠集落なのです。
何kmもの濠をめぐらせた環濠集落。機械も何もない時代に、どれだけ大変な工事だったことでしょう。けれど、どれだけ工事が困難だったとしても、守りたいものがあったのです。

前回ご紹介した奈良県の唐古・鍵遺跡は、単なる農村ではなかったことが発掘調査で証明されています。日本の様々な地域の土器が運ばれていることから、唐古・鍵遺跡は「市」の働きをしていたのではないかと考えられているのです。
また、当時の最先端技術である青銅器の生産や、石器・木器などの製作が、分業化され専業集団を育てて生産されていたと考えられています。
幾重にも連なる巨大な環濠に囲まれていることで、自然災害や争乱による被害を未然に防ぎ、安定した発展を遂げるとこができたのかもしれません。
環濠集落は、人々の暮らしと財産を守るだけでなく、稲作文化とともに伝来した様々な技術を磨き高め、継承する役割を担っていたのです。
ロンダン-お城カタリストの城語り