奇跡のセオリーと人生哲学

世界の活動で得た奇跡のセオリーと人生哲学(1)はじめに‐世界に届けた感動の意味‐

(1) はじめに -世界に届けた感動の意味-                  私は、1995年インド カルカッタのマザーハウスで、マザー・テレサに出会ったことがきっかけで、長年、日本、世界でのボランテイア活動を行ってき …

(1) はじめに -世界に届けた感動の意味-                  私は、1995年インド カルカッタのマザーハウスで、マザー・テレサに出会ったことがきっかけで、長年、日本、世界でのボランテイア活動を行ってきました。劇団としてできるだけ誰も行かないところで感動を届ける公演をし、かけ橋を作り、支援を贈るという活動です。

最初は、国内のハンセン病の療養所、刑務所少年院、老人ホーム等、働きながら休みを利用しての活動で、ハイエース2台に衣装を積んで10人が、日本全国を慰問に訪れました。まだナビがない時代に、夜を徹しての移動3時間交代で運転し、南は熊本県天草市、北は札幌まで。奄美大島と冬の網走刑務所は飛行機で。その中で、日本に1か月の保養滞在にきていたチェルノブイリ放射能汚染の村々の子供たちとの出会いがあったのです。

忍者、サムライ、花魁が登場する舞台に魅せられた子供たちは、「僕たちの村に来て、おじいちゃん、おばあちゃん、家族に見せてほしい」と。その約束を果たすために、1999年世界公演の始まりとなったチェルノブイリ放射能公演が実施されました。こうしてチェルノブイリ放射能汚染地に始まり、最終的に11か国30万人に感動を届けることになりますが、これら全てが人との出会いによって運ばれたもので、志を持てば、必ず実現するという原点です。

世界の貧しいエリアに、物ではなく感動を届けるのは、物はやがて朽ちてなくなる、またアジアの貧しいエリアでは物が原因で争いがおこることもある。しかし感動は記憶として心の中に一生残るもので、希望を生み出すからという理由がありました。また、アジアの国々と日本とは悲しい戦争の傷跡がありますが、私たちが足を運び喜んで頂きことで、少しでもその溝を埋めることができたらという思いも。それは将来の日本とアジアとの国々とのさらなる交流の時代を予測してのことでした。そして、公演を届け絆ができたところで、子供たちを日本に招待し支援の懸け橋をつないだのです。

子供たちが発展した日本を直接見ることで、大きくなったら、自分たちの国も日本のように発展する一助になりたいという夢をもってほしいと願ったのです。公演は、日本の踊りを中心にした竜宮城のように美しく、楽しい世界観の演出、1トンの衣装で出演者、裏方合わせて約30人体制、1ケ国で約2~3万人を劇場招待します。私は劇団のマネージャーとして、単身現地に赴いて、現地の協力者と共に全ての準備に赴いていました。

縁から縁がつながり、チェルノブイリ放射能汚染地やネパールの人身売買救済施設、ミャンマーのハンセン病の村と、世界公演は広がっていきました。劇場に行ったことのない貧しい人々にその国で一番大きな劇場等で感動をというのがメインですが、劇場がないところは、サッカー場や草原に特設舞台をこしらえたりと様々な場面が生まれました。ほとんどが世界の誰も行かないエリアですから、エージェントはいないし、十分な設備がない中、政府との交渉、劇場及び舞台現地スタッフとの契約、ホテル、移動バスの契約、大人数が食事できるレストランの確保、一番大きな仕事は3万人の集客です。私にとっては、ゼロから自分で考え行動を起こしていくという、とてつもない楽しさがありました。

しかし、その中で絶体絶命とも思われる場面に何度も遭遇し、結果的には、10年間で11か国30万人に感動を届ける活動を大成功に終わらせることができました。この成功において最も大切なことは、「目的の先に笑顔があるのか」ということだと思っています。これはボランテイアに限らず、ビジネスでも同じだと思います。人はともすると欲で目がくらみ、道を外しがちですが、その時にこの軸に立ち返ることが大切だと思います。私は、多くの笑顔のために行動していたので、一度も危険な目に出会ったことがありませんでした。長年ビジネスでアジアに駐在した経験のある友人は、現地の事情に詳しいので、外国人の女性なら、お金を持っていると狙われやすいのに、全く危ない目に合わなかったのは奇跡的だと言います。

しかし、目的に向かってひた走る私の中に、危険や不幸や失敗というネガテイブな概念が存在していないので、そのような出来事に遭遇しなかったといえるでしょう。勿論、紛争地域や危険な場所に自ら行くようことはしていませんが。 そしてその後も、目の前に現れる現象は自分自身の意識が創出しているということを証明するような出来事が次々と続くのです。

一方、「菊池さんよくここまでできましたね」と取材などでよく聞かれます。

しかし、他の人はどうかはわかりませんが、私は他の誰かのために自分を犠牲にしてということはできません。40歳ですべての仕事を辞めて、女性ばかりの劇団の住み込みマネージャーとして共同生活をして活動したのは、自分が目指す目的意識があったからできたことです。

「自己成長したい、世界での経験を積みたい」

という強い思いです。

自分の目的の達成に随行して、人々の笑顔や喜びが発生していったという感じです。途中、何度も挫折しそうになりましたが、目的を多性するまではと頑張ることができました。生きている場所、一般社会や家庭、様々な場で学ぶチャンスがあると思いますが、私は究極の選択をし、稀有な経験をすることができました。これからの連載で、世界で遭遇した奇跡的な出来事から気づいた人生哲学、奇跡のセオリーを検証していきたいと思います。

つづく

ベラルーシ共和国の劇場
著書「ムーンリヴァー」

奇跡のセオリーと人生哲学 過去記事一覧

テキストのコピーはできません。