日本政治家列伝

これまで日本には多くの政治家が誕生してきた。その手腕はもちろん、個性豊かなキャラクターが愛され、後世に語り継がれる「名」政治家たち。シリーズ「日本政治家列伝」では、多くの人に知られる政治家はもちろん、時代の変遷と共に記憶が風化してしまった政治家を取り上げ、その魅力に迫る!

佐藤の頑固がなつかしい

「おれは頑固だ。しかし、頑固の元祖みたいな𠮷田さんの薫陶を受けたのだから仕方ない。」 記者会見の席上、自民党の実力者、佐藤栄作(幹事長)はそう言うと、ポケットからハンカチを出して目頭を押さえたという。1955年11月3日 …

「おれは頑固だ。しかし、頑固の元祖みたいな𠮷田さんの薫陶を受けたのだから仕方ない。」

記者会見の席上、自民党の実力者、佐藤栄作(幹事長)はそう言うと、ポケットからハンカチを出して目頭を押さえたという。1955年11月3日のこと。保守合同による自民党の結党式が同月15日だから、その直前のひとコマである。佐藤は、保守合同に頭から反対で「たった一人の反乱」の挙に出たのだった。𠮷田茂の門下生には、𠮷田時代の栄光があり、政敵鳩山一派のもとに併合されていく屈辱の思いが強かった。しかし、保守合同は時代の要請。正義とみられたのである。ざっと40年前のこの情景をもちろん実地に見てはいない。佐藤はのちに首相番記者として身近に接したが、権力者のにおいが強すぎて好感を持てなかった。だが、時が過ぎてみると、佐藤の頑固さが大変なつかしく、最長不倒政権の秘密の一端をのぞいた気がしている。 

 このところの政権は、保守合同前夜に似てきた。離合集散が続く中で、佐藤のような頑固者は誰だろうかと見直してみるが、視野に入ってこない。佐藤が去って、すでに長いが、政情内は政治家気質が大きく変わってしまった。この混迷期を乗り切るには、目先主義でない頑固さが、大切だと思われてならない。

保守合同に話を戻すと、いわゆる𠮷田十三人衆のなかでは、佐藤ともう一人、池田勇人も参加を拒むとみられていた。𠮷田の愛弟子十二人。しかし、池田は最後に「佐藤君、許してくれ。」と謝って。新党に加わった。「父の池田不信はこの時に生まれたのではないか。」と佐藤家の次男、信二(元運輸相)は言う。その池田は合同の年、55年の大晦日に東京・代沢の佐藤邸(現竹下邸)を訪ねた。佐藤夫人、寛子の「宰相夫人秘録」によると、池田は玄関先で「おーい。」と独特のしわがれ声をあげる。応対に出ると、片手に酒瓶、もう一方の手にタオルのようなものをぶら下げ突っ立っていた。「まあ、これはこれは…。」「うん、明日は元旦だからねえ、広島のカキを持ってきたんだ。いるかい。」とつかつかと部屋に上がり「佐藤んとこも正月が迎えられそうじゃないか、安心したよ。おお花も生けてあるのか。」などと冗談を飛ばした。その夜二人は遅くまで酒を酌み交わしていたという。無所属に転じて悲哀をかこつ佐藤を池田は慰めたのである。「男の友情っていいものだなあとつくづく思ったものでした。」と寛子は書いているがざっくばらんな池田らしい振る舞いだった。

実は佐藤は正確には一人だけの反乱ではなく、側近の橋本登美三郎(佐藤政権の官房長官)も不参加に付き合った。佐藤に「残るのはおれ一人でいい。大バカは一人でいいのだ。考え直せ。」と説得されたが、聞き入れない。茨城出身の橋本はあとで「男が一回不参加と決めたことを、涙を飲んでとかいって決心を変えるのは、若い水戸っぽの私には気に入らなかった。」と情緒的に語っている。佐藤は𠮷田に殉じたかっこうだった。何か理念とか、特別な大義があったわけではなく、男気のようなものである。やはり𠮷田十三人衆の一人。保利茂元衆院議長も「佐藤さんただ一人敢然として鳩山政権のもとでは断じて(合同)すべきではないと言い一歩もゆずらない。見上げたもんだと思うぐらい徹底していた。」と書き残していた。

その後、1年2カ月無所属を押し通したあと、佐藤は、鳩山政権が倒れるのを見定めて、自民党に入党した。その間、国会の議席も共産党の隣でしょんぼりしていたという。控室も共産党や小政党に混じって苦労したという。さて、頑固さということ、政局も大詰めだが、どの政党もリーダーも模様見ばかりでは霧が晴れない。政治家が国会で主張の正当性を貫く努力は、その人物の命なのだ。こうした苦労は、自分の現状をどうすべきか、正当性をどう進めていくか決断し貫くことができるかである。佐藤はそれを知り尽くしていた。

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