日本政治家列伝

これまで日本には多くの政治家が誕生してきた。その手腕はもちろん、個性豊かなキャラクターが愛され、後世に語り継がれる「名」政治家たち。シリーズ「日本政治家列伝」では、多くの人に知られる政治家はもちろん、時代の変遷と共に記憶が風化してしまった政治家を取り上げ、その魅力に迫る!

明治の気骨がなつかしい

赤城宗徳は風格ある明治の政治家だった。 戦後の新聞のインタビューで「戦前の私は、いまでいえば右翼ですな「鬼畜米英撃滅」とか「暴支膺懲」とか言って戦争やれやれと旗を振っていた。「ヒットラー、ムッソリーニと組め」とか「五・一 …

赤城宗徳は風格ある明治の政治家だった。

戦後の新聞のインタビューで「戦前の私は、いまでいえば右翼ですな「鬼畜米英撃滅」とか「暴支膺懲」とか言って戦争やれやれと旗を振っていた。「ヒットラー、ムッソリーニと組め」とか「五・一五、二・二六事件」にも賛成したほうだし、東条を応援し、そのあと岸さんらと組んでその東条を降ろしてみたり…。」と語っていた。

当時、頭を出してきた中曽根政治に危機感を抱き、右翼と逆のハト派で親ソ派の長老として論陣を張っていた。岸人脈の中で育ちながら、岸・佐藤・福田の官僚系列に強烈に反発し、のちに流三木・河本派に転じている。「水戸っぽ」らしい反骨を信条とした。赤城のような我流を貫くを持つ政治家は今の政界には見当たらない。初入閣が1957年発足の岸内閣、52歳で農相になった。郷里の村の人達は「やっぱり。」と納得したという。戦前、戦中、戦後戦犯で追放中、百姓暮らしをしていた土臭い赤城のポストは他に考えられなかったからだ。

その時、閣僚メンバーをみると、赤城より若いのは前尾繁三郎・通産、田中角栄・郵政、石田博美・労働、根本竜太朗・建設、愛知揆位置・官房の5人である。最年少だった田中角栄(当時39歳)も政界にはいない。しかし、政界は確実に時を刻んでいた。

赤城が語り、書き残したお気に入りのエピソードに「紋付き」「袴はかま」事件がある。鳩山内閣ができる1年前の1953年ごろ、自由党幹事長池田勇人から赤城に「文部政務事官に就任してほしい。」といった話が持ち込まれた。だが当時は、三木武𠮷、河野一郎、石橋湛山や岸が𠮷田内閣打倒の最中、岸派の赤城は事務局長として飛び回っていた手前、受けるわけにはいかない。岸に相談しても「やってもやらなくてもいい。」と一向に煮え切らない。

赤城は肚を決め、池田に電話して「引き受けにくい。」と断ったところ、自宅に来てくれという。夜、東京信濃町の池田邸に出向いた。

池田は玄関脇の部屋で新聞記者たちと酒を飲んでいた。奥の部屋に通され、しばらくすると、池田が麻の紋付姿に、袴をつけて入ってきて「さあ。」と赤城を上座に座らせた。「吉田退陣の運動をしているのでお気持ちはありがたいが、心苦しい。」と心意を述べると、池田は「それでは半日はそういう方面で運動されても結構だが、あと半日だけ文部政務次官として務めてもらいたい。」と辞を低くして口説いた。断り切れず、赤城は引き受ける。

「一回の陣笠代議士の私に対する池田さんの態度は大げさに言え士(さむらい)の扱いだった。士は己を知るもののために死すというが、私は池田さんを心から敬服することになった。」古めかしい話ではあるが、あのころの政界の気風を偲ばせておもしろい。

反佐藤を鮮明にしていたが、71年夏の佐藤内閣改造で、赤城はなんと6度目の農相に就任した。その時佐藤は「赤城君、農本主義はもう古いよ。」とクギを刺したという。農産物の自由化問題がやかましくなりだしたころで、あまり強く拒否すると困ると言いたかったのだ。赤城はこれに「しかし、農業と農民を大事にしないと民族の将来性はありませんよ。」と応じている。

政情加熱の中、赤城世代の気骨は教訓的だ。これを最後に明治、大正、そして戦後の日本政界は新しい時代を迎えたようだ。

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