【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
『東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首班に推せんし、天皇陛下がなぜこれを御採用になったか、その理由が私にはわからない。』は、東久邇宮が東条首相の出現に驚き、日記に記したものだ。対米協調派でおられた皇族軍人の東久邇宮稔彦王を首班に推す声は小さくなかったが、木戸内大臣の推挙により昭和天皇の承認を取り付けてしまった。 (その5)で述べた10月16日(午前)の天皇への拝謁(約50分間)と、10月17日の重臣会議での「独り舞台」(発言率49.38%)を結びつけて考えるのは暴論だろうか?異論はない筈の東条英機首相誕生の経緯を、改めて時 …
昭和20年の初頭に進む前に、(その6)でも述べた「木戸幸一内大臣のやらなかったリスト」の一部を念の為に記します。 ・昭和18年3月 (30日)昭和天皇より厳しい戦局に関し、木戸の意見を訊かれたが、「一撃後講和」を奏上したのみに留める。 ・昭和18年4月以降 東条内閣の独裁的・秘密主義的なやり方に対する不満が木戸の下に届けられたが、一切無視を続けた。 ・また昭和18年10月には、近衛ら重臣が、戦況や内閣の方針について天皇陛下への言上を試みても、文字通り天皇の木戸番であった木戸内大臣が頑として阻止した。(「木戸は天皇の木戸番」) 更に昭和18年11月には、『木戸内大臣が事実を天皇に知らせないため、 …
昭和20年2月7日から始まった「天機奉伺」の「重臣の拝謁」は、14日に近衛公の出番となったが、開戦以来初めてゞ実に3年振りの単独拝謁であったが、この日に限って藤田侍従長に代わり木戸内大臣が侍立するという奇計が行われた。(他の6名はすべて藤田侍従長が侍立) 藤田侍従長が風邪を引いていたと木戸日記に記されている(時局に関スル「重臣奉答録」にも、『病気ノ為木戸内大臣侍立要旨ヲ手記ス』の記録あり)が、木戸が藤田侍従長と近衛公の面識が薄いことを理由に代役を申し出たという説もあり、後者の方が用心深く猜疑心が強かった木戸の行動としては納得できる。 案の定近衛上奏文が示され、自身の不明を詫びた上共産化の懸念と …
昭和20年8月23日、クレムリンでは「日本軍捕虜五十万人受け入れ収容、労働利用に関する決議」が、ソ連の国家国防委員会で行われたが、8月9日の侵攻から僅か二週間後にこのような決議が、何故これほど迅速に行うことができたのかという素朴な疑問が沸いてくる。 そして、「五十万人」という数字の根拠は何処にあり、どのようにはじき出したのかとの疑いも拭い切れず、むしろ丹念に、そして誰にも知られないように進めていた合意事項ではなかったかとの憶測を禁じられない。 同日、スターリンがワシレフスキー元帥に与えた指令では、「極東、シベリアの環境下での労働に適した日本軍捕虜50万人を選別せよ」というものであった。 (その …
昭和20年9月13日に、近衛公は接収された横浜税関にマッカーサーを訪ねたが、通訳の能力不足で実質的な話し合いにはならなかった。 そして、10月4日には通訳に奥村勝蔵氏(日米開戦時、ワシントンの日本大使館一等書記官。既述した、9月27日の天皇―マッカーサー会談でも通訳を務めた)を同行させ、有意義な会談となったと記録されている。 この会談の中で、近衛公はマッカーサー元帥から『…今日は“ definit ”のこと(確かなこと、の意)を申し上ぐ…』との前置きの後、『公がリベラルを集めて、帝国憲法を改正せらるべし。而も此の改正は出来得る限り急速に、一刻も早く成し遂げらるゝことを要す、而して是が公の国家に …