【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
約10ヶ月に及んだ(11月18日帰国)パリ講和会議随行の記録は、翌年「戦後欧州見聞録」一巻として著されたが、「英米本位の民主主義を排す」で発揮された筆致と識見は随所に示されている。 そして、地球規模の陰謀とも言える共産主義の跋扈が日本をも席巻しはじめ、大正11年7月には日本共産党が結党、同年11月にはコミンテルンに加盟している。(コミンテルンが日本に「支店」を出したようなもの) 更にこの頃から、共産主義が背後で蠢いているとみられる事件が中国大陸で頻発し、日本国内でも虎ノ門事件(大正12年12月27日 迪宮裕仁親王―後の昭和天皇陛下―への暗殺未遂)など、関東大震災(大正12年9月1日)後の社会不 …
嵐の大海への船出となった第一次近衛内閣だったが、「暴支膺懲」発言を出さなければならないほど盧溝橋事件や通州事件(その3にて既述)以降の大陸での治安は悪化し、その対策として居留民保護の観点から国民の精神高揚を鼓舞するスローガンともなっていった。 「暴虐な支那を懲らしめよ」【暴戻(ぼうれい)支那ヲ膺懲(ようちょう)ス】という意味で、後に対米英への「鬼畜米英」と結びついて、「鬼畜米英、暴支膺懲」となり、戦闘精神を増幅させたことは戦後生まれでも理解できる。 昭和13年1月16日には有名な「国民政府を対手とせず」(近衛第一次)声明が出され、対支政策は混迷を一層深めていった。 昭和15年になりフランスの敗 …
その「無念と歯軋り」に移る前に、もうしばらく近衛公の生涯を時系列に沿って忠実に辿ってみたい。 第二次近衛内閣の組閣直前(昭和15年7月19日)に「荻窪会談」で因果を含めた筈であった松岡洋右外相を、外すための総辞職(≒閣内不一致)を経て第三次近衛内閣が組閣されたのは、昭和16年7月18日であった。 その独断専横ぶりはあまりに有名な松岡だが、日ソ中立条約を破棄してソビエトをドイツとともに挟撃する主張をしていたことは留めておくべきだろう。 親ソ連派(端的に申せば統制経済国家を標榜していた人々)が唱えていた「南進論」が勢いを増し「北進論」は影を潜めて、7月31日には東条陸相が『いまや支那事変の処理につ …
『東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首班に推せんし、天皇陛下がなぜこれを御採用になったか、その理由が私にはわからない。』は、東久邇宮が東条首相の出現に驚き、日記に記したものだ。対米協調派でおられた皇族軍人の東久邇宮稔彦王を首班に推す声は小さくなかったが、木戸内大臣の推挙により昭和天皇の承認を取り付けてしまった。 (その5)で述べた10月16日(午前)の天皇への拝謁(約50分間)と、10月17日の重臣会議での「独り舞台」(発言率49.38%)を結びつけて考えるのは暴論だろうか?異論はない筈の東条英機首相誕生の経緯を、改めて時 …
昭和20年の初頭に進む前に、(その6)でも述べた「木戸幸一内大臣のやらなかったリスト」の一部を念の為に記します。 ・昭和18年3月 (30日)昭和天皇より厳しい戦局に関し、木戸の意見を訊かれたが、「一撃後講和」を奏上したのみに留める。 ・昭和18年4月以降 東条内閣の独裁的・秘密主義的なやり方に対する不満が木戸の下に届けられたが、一切無視を続けた。 ・また昭和18年10月には、近衛ら重臣が、戦況や内閣の方針について天皇陛下への言上を試みても、文字通り天皇の木戸番であった木戸内大臣が頑として阻止した。(「木戸は天皇の木戸番」) 更に昭和18年11月には、『木戸内大臣が事実を天皇に知らせないため、 …