【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
昭和20年2月7日から始まった「天機奉伺」の「重臣の拝謁」は、14日に近衛公の出番となったが、開戦以来初めてゞ実に3年振りの単独拝謁であったが、この日に限って藤田侍従長に代わり木戸内大臣が侍立するという奇計が行われた。(他の6名はすべて藤田侍従長が侍立) 藤田侍従長が風邪を引いていたと木戸日記に記されている(時局に関スル「重臣奉答録」にも、『病気ノ為木戸内大臣侍立要旨ヲ手記ス』の記録あり)が、木戸が藤田侍従長と近衛公の面識が薄いことを理由に代役を申し出たという説もあり、後者の方が用心深く猜疑心が強かった木戸の行動としては納得できる。 案の定近衛上奏文が示され、自身の不明を詫びた上共産化の懸念と …
昭和20年8月23日、クレムリンでは「日本軍捕虜五十万人受け入れ収容、労働利用に関する決議」が、ソ連の国家国防委員会で行われたが、8月9日の侵攻から僅か二週間後にこのような決議が、何故これほど迅速に行うことができたのかという素朴な疑問が沸いてくる。 そして、「五十万人」という数字の根拠は何処にあり、どのようにはじき出したのかとの疑いも拭い切れず、むしろ丹念に、そして誰にも知られないように進めていた合意事項ではなかったかとの憶測を禁じられない。 同日、スターリンがワシレフスキー元帥に与えた指令では、「極東、シベリアの環境下での労働に適した日本軍捕虜50万人を選別せよ」というものであった。 (その …
昭和20年9月13日に、近衛公は接収された横浜税関にマッカーサーを訪ねたが、通訳の能力不足で実質的な話し合いにはならなかった。 そして、10月4日には通訳に奥村勝蔵氏(日米開戦時、ワシントンの日本大使館一等書記官。既述した、9月27日の天皇―マッカーサー会談でも通訳を務めた)を同行させ、有意義な会談となったと記録されている。 この会談の中で、近衛公はマッカーサー元帥から『…今日は“ definit ”のこと(確かなこと、の意)を申し上ぐ…』との前置きの後、『公がリベラルを集めて、帝国憲法を改正せらるべし。而も此の改正は出来得る限り急速に、一刻も早く成し遂げらるゝことを要す、而して是が公の国家に …
昭和20年11月9日、芝浦の桟橋からランチ(launch:艦載の大型ボート)に乗せられた近衛公は、沖に停泊していた揚陸指揮艦「アンコン」(13,000t)に半ば連行された。 秘書であった牛場友彦が通訳を兼ねて同行したが、艦長室では戦略爆撃団の団長のポール・ニッツェが構えており、ウクライナ生まれのマルキシストのポール・バラン(都留重人のハーバード大学時代の先輩)が“ Mr.Konoe”とロシア訛りの英語で尋問を始めた。(牛場友彦氏の「風にそよぐ近衛」より、このアンコン号の部分は引用) まず最初に持ち出してきたのは、昭和16年4月30日に首相であった近衛公(第二次近衛内閣)がアメリカ政府に対し平和 …
E・ハーバート・ノーマン(Edgerton Herbert Norman)は、明治42年9月1日に在日のカナダ人宣教師ダニエル・ノーマン(Daniel Norman)の子として長野県軽井沢町で生まれた。 敢えてこの人物に言及するのは、GHQに入り込んで日本の戦後を歪めた共産主義者であったばかりでなく、近衛公の生涯を大きく変えた木戸幸一・都留重人と並ぶ「三羽烏」と考えるからに他ならないらない。 もっと端的に申せば、近衛公を死に追いやった張本人であったからだ。 昭和8年(1933年)にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学を学んだ後、ハーバード大学に入学して父親の知人であったエドウィン・O・ …