【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
日本とソ連は、「不可侵条約」を結んでいた。 ドイツの対ソ侵攻計画に対する予見から提案を受け入れたソ連邦が、昭和16年(1941年)4月13日に締結させていた。 1940年4月、ヒトラーが突然北欧作戦を始め、デンマーク・ノルウェーに侵入、5月にはオランダ・ベルギー・ルクセンブルク三国の中立を犯して北フランスに攻め入った。 フランス・イギリス連合軍は、マジノ線を突破され、ダンケルクの敗北を喫し、6月22日フランスは降伏、1940年10月からはイタリアのバルカン・エジプト侵入が敢行され、この年の末から1941年3月にかけて、ドイツはハンガリー・ルーマニア・ブルガリアを従属させ、4月にはユーゴスラ …
前稿の「ヤルタ会談」で詳しく見てきたように、ソ連(≒スターリン)が第二次世界大戦の終盤にどのような企てを腹蔵していたかは、歴史の中で紛れもなく一条の光を放っている。 ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、ウラジミール・レーニン率いるボリシェヴィキが、1917年に起こした十月革命を起源として勢力を拡大し、反ボリシェヴィキ(主として、白軍)を抑え込んで、1922年12月30日にロシア、ザカフカース、ウクライナ、ベラルーシを統合したソビエト連邦を成立させたもので、レーニンの死後はヨシフ・スターリン(Iosif Vissarionovich Stalin)がその筆名(「スターリン」:鋼鉄の人)の通り、 …
大東亜戦争終戦前後の数々の惨禍を個別に振り返えってきたが、もう一度大正6年(1817年)にまで戻って再確認しておきたいことがある。 「無名の師」(大義名分のない戦争)と批判されている「シベリア出兵」だが、革命ロシアへの干渉戦争とされているもので、当時(帝国主義を背景とした占領政策がむしろ常識的であった)の政府・軍部は反革命派を支援して、親日の「傀儡政権」を樹立しようとしていた。 大東亜戦争同様、非難に晒されていることの多いシベリア出兵だが、その史的評価が正しく正鵠を射ていると言えるのか、検証してみよう。 ・下関条約(1895年4月)日清戦争の講和条約であり、三国(独・仏・露)干渉により、批 …
「シベリア出兵」には、様々な要因が絡み合っているので、今一度その成り立ちを(前稿でも述べたが…)振り返っておく。 1914年8月23日、ドイツへ宣戦布告して日本の第一次大戦への参戦が始まり、同年10月には赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月には中国にあったドイツの植民地・青島を占領した。 1916年7月3日には第四回日露協約が結ばれたが、それまでの協約とは異なり、第三国の中国支配を防ぐ目的で「秘密協約」が含まれていた。 中国全土に協約の及ぶ範囲を拡大した、事実上の攻守同盟であった。 しかし、1917年3月8日の国際婦人デーに起きた「二月革命」(当時のロシア歴は、西暦より13日遅れで2月23日 …
前稿迄でも触れたが、「シベリア出兵」と言えば「干渉戦争」が代名詞のように語られているので、その背景を改めて振り返ってみたい。 「シベリア出兵」は第一次世界大戦の延長線上にあり、日本は1914年8月23日にドイツへの宣戦布告をして参加したのだが、10月にはドイツ領南洋諸島(赤道以北)を、11月には青島を占領して1914年末には日本の「大戦」は事実上終わっていた。 第一次世界大戦の発端となったセルビア人による皇位継承者暗殺事件に対する宣戦布告を行なったオーストリア(1914年7月)と、同じスラブ系のセルビア人を座視できないと考えたロシアに宣戦布告した(同年8月)ドイツが「同盟国」であり、露英仏日 …