【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
シベリア抑留は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除して投稿した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリアなどソ連各地やソ連の衛星国モンゴル人民共和国などへ労働力として連行され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。男性が多いが女性も抑留されている。 ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島で戦後にかけて抑留された日本人は約57万5千人にのぼる。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した。このうち氏名など個人が特定された数は2 …
前稿で、関東軍は逃げたと述べたが、それは当時の開拓民を中心とした一般人が蒙った厄災の数々に怒りを禁じ得ないからであり、その災難をもたらしたソ連(≒スターリン)ともう一方の関東軍に、その責を償うべきだと声を大にして叫びたいからに他ならない。 少し長くなり恐縮だが、以下にその顛末を述べさせて頂く。 「…好は、私に母の飯盒を洗いよく乾かすようにと言った。『それがお母様の骨壺よ。』時計が9時を鳴らすと、私たちは荷物を背負って火葬場へ向かった。到着するとすぐに羅南からずっと持ってきた箸で、私たちは丁寧に母の小さな遺骨を飯盒に入れた。…」(「竹林はるか遠く」より引用) 飯盒を母親の骨壺にしなくてはならな …
【「対ソ静謐保持」という指示が発令されたのは、昭和16年12月3日付け大本営陸軍命令(「大陸命」)によって】と前稿で述べたが、以来昭和20年8月のソ連参戦に至るまで、それは関東軍にとっての一大標語ともなった。 それは、積極的には強大を装い、少なくても弱化の状態を露呈しないことであり、消極的には万事控え目にして相手に刺激を与えず、さらには相手から刺激されても、じっと我慢していることである。 大東亜戦争開戦時は、独軍が強大であり深くソ連領内に攻勢をとっていた時代であるばかりでなく、関東軍自体も優勢精強であったので、静謐確保という任務も特別の努力を払わずに達成できた。 要するに、静謐確保などという …
これまでに、「日本の惨禍(28)~(32)」で「ヤルタ会談」として取り上げてきたので、重複する部分はお赦し頂くとして、1943年11月末、独ソ戦でのソ連の優位が確立して、ルーズベルト・チャーチル・スターリンの三首脳はイランのテヘランに集った。 英米のフランス上陸作戦の期日が設定され、ソ連が機をみて対日参戦することも決められた。 ソ連の参戦なしには日本を打倒するのは困難であると、ルーズベルトは考えており、勝利するとしても多大な犠牲が伴うとも考えていたからであった。 その条件として、アメリカは莫大な支援物資をソ連極東に供給することを約したのだが、「ソ連共産党はルーズベルトが育てた」との評価があら …
一般的には、シベリア抑留者数は60万人であり死者の数は6万人であったとされているが、ソ連の国家機関の発表した数値は昭和21年3月の30万人~35万人(ソ連外務省データ)を皮切りに、昭和22年3月の105万人余(ソ連外務省データ)まで十数種類あり、正確な数字は不明としか言えない。 おまけに昭和25年4月22日付け「プラウダ」では、「…タス通信社は全権をもって以下を声明する。ソ連からの日本人軍事捕虜の本国送還はすべて終了した…」と嘯いている。 シベリア抑留された中から、遂に母国の土を踏むことなく、ラーゲリで無念の最期を遂げた代表として、近衛文隆氏の抑留遍歴から振り返ってみよう。 ・昭和20年8月 …