【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
―抗日の構図(4)― 「抗日の構図」を探る為、支那の民族的特性(24)、共産主義による使嗾(25)、反日教育(26)と検証してきたが、我が国と支那の間に歴史上横たわってきた根本的な原因にも照準を当ててみたい。 不平等条約に苦しんできたのは、我が国も同じであったが、「清国」以来の支那は条約改正に精力的に取り組むのではなく、外貨(外国製品の意)排斥を以って保護関税の代用とすることを専らとした。 殊に、絹織物に関しては日本製に対抗することが困難となり、「ボイコット」することが最大の手段となったのだが、その術として「反日・排日」を主流に仕立て、他の要因と呼応させながら「国是」のようになっていった。 …
―ヤルタ会談(1)― クリミヤ半島南端に位置し黒海に臨む海岸保養地として有名であった「ヤルタ」の語源は、「岸辺」を意味する語で、古代ギリシア人たちによって開かれた町であり、上陸に際して安全な岸(γιαλος / yalos )を求めたギリシャの船乗りによって築かれたと言われている。 南は黒海と接し、森林に取り囲まれ温暖な地中海性気候であり、現在では、黒海沿岸で屈指の保養地として知られている。 1920年、ウラジミール・レーニンは「クリミアの労働者の療養のために使用するにあたって」との布告を発し、この地域をきらびやかで高級なリゾート地から疲れたプロレタリア労働者のための療養の地へと作り変える …
陣営によって「ヤルタ会談」が、「悲喜」の評価に大きく分かれたことは前稿(「日本の惨禍〈28〉」)で述べたが、その前年の8月~10月にはワシントンD.C.郊外にあるダンバートン・オークス(Dumbarton Oaks:ハーバード大学所属の研究機関。研究図書館および博物館と庭園から構成される。)で国際会議が開催されていた。 会議の目的は、国際連合憲章草案作成のための、国際法の専門の法律家による実務者会議であり、首脳会談ではなかった。 会談は2回に分けて行われ、1度目はアメリカ合衆国、ソビエト連邦、イギリスの3ヵ国間で、2度目はアメリカ、イギリス、中華民国の3ヵ国間で行われたが、安全保障理事会の常 …
前稿(「日本の惨禍〈29〉」)では、仕組まれた「ヤルタ会談」の背景と裏話を述べさせて頂いたので、本稿ではその裏話を仕組んだ張本人であったルーズベルトの病状について言及させて頂く前に、アメリカの三つの「忘れるな」について述べさせて頂く。 「Remember the Maine ! メイン号を忘れるな!」 「Remember the Panay ! パナイ号を忘れるな!」 「Remember Pearl Harbor ! 真珠湾を忘れるな!」 「Remember the Maine ! メイン号を忘れるな!」に関しては、1898年2月にキューバのハバナ港で、 …
(タイトル画は、プラウダ創刊号) 「こんどの会談は不吉な結果をうみだすかもしれない。戦争の影が尾を曳いていて主要な連合諸国の意見がかくも分かれている時に会談をひらくのだから。 今度の戦争が前大戦よりももっと失望的な結果に終わるのではないかと考えるようになってきた。」と語ったのは、ヤルタ会談に赴く前夜のチャーチルであり、ドイツ分割問題の原則を引き延ばす作戦を講じた。 チャーチルとスターリンの不仲は、ヤルタ会談の期間中も繰り広げられて絶望感の漂う、誰にも繕うことのできない状況となっていた。 本来ならば、最悪の敵(である筈の)・ナチスを滅亡させた後、ドイツの処理について深く突っ込んだ論議を交わし …