【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
(その15)で述べたように、「黙殺」が原爆投下の一因であったと主張するのであれば、昭和20年2月の重臣拝謁で近衛公が述べた「近衛上奏文」が軽視され、昭和天皇陛下が却下された史実こそが究明されるべきではないか? 天皇陛下の責任に言及しなければならないこの検証を避けて通りたいのは理解できても、祖国の進路と国民の生命を問う問題である。 大日本帝国憲法下では天皇の権限は制限されており、輔弼・輔翼の立場にあった者が責を負うべきであり、その意味では近衛公が中国問題・三国同盟・開戦直前の東条英機への禅譲等で罵声を浴びせられるのは止むを得ない面もある。 しかし、何度も述べてきた通り陛下の最もお傍で昭和15年6 …
「永年ノ消息不明デ、嘸(サゾ)御心配下サッタ事ト思ヒマス。幸カ不幸カ、マダ生キテヰマス。ソチラハ、皆サンオ変リアリマセンカ。家郷ノ事ヲ思ハヌ日ハアリマセン。正子ハ無事満洲カラ帰リマシタカ。家ノ財政、生活状態ヲ詳シクオ知ラセ下サイ。次ニ左記ノ品物ヲオ送リ下サイ。 (以下、現金、食料品、衣料のリスト) …コンナ事ニナッテ、正子ハ可愛想デスガ、致シ方アリマセン。何デモ好キナ事ヲヤラシテヤッテ下サイ。万一帰国ノ暁ニハ、母上ト正子ヲ同伴シテ、カリフォルニアニ、半年程、保養ニ行キタイト考ヘテヰマス。通隆モ既ニ家庭ヲ持ッタ事ト想像シテヰマス。御返事ヲ鶴首シテ、待ッテヰマス。 ソチラカラハ、手紙デモ届クカモ …
念の為、文隆氏の抑留遍歴を振り返っておく。 昭和20年8月18日 図們郊外山中の駐屯地でソ連軍により武装解除 昭和20年8月18日 間島兵営に連行される(将兵 約2万人) 昭和20年10月16日 ノヴォ二コリスク収容所に移送 昭和21年1月~昭和22年5月 ルビャンカ(KGB管轄の刑務所) 昭和22年5月~昭和26年11月16日 レフォルトヴォ監獄 昭和26年11月16日~昭和27年1月20日 プトルイスク監獄 昭和26年12月20日 ソ連邦刑法第五十八条第四項違反(資本主義幇助)により、禁固二十五年を「特別会議」から申し渡される 昭和27年2月15日 アレクサンドルフスク監獄(イルクーツク州 …
剛強壮健な文隆氏が僅かひと月の間に死に至らなければいけなかった原因が特定できないのは、ソ連の策謀と杜撰な管理の所為で、残念ながら憶測の域は出ない。 抑留中の死者の数でさえ発表した国家機関にも確信が持てないどころか自ら改竄・捏造していたのだから、確かな証拠など望むべくもない。 それでも、文隆氏の名誉回復のために奔走したロシア人、V・A・アルハンゲリスキーの弾劾の労作「プリンス近衛殺人事件」などの数少ないノンフィクションに基づいて、慎重にそして丹念に振り返ってみたい。 文隆氏の体調に異変が現れたのは昭和31年で、それも日ソ交渉に目鼻が付き始めた頃から顕著になったとされているが、本人が「大痔 …
能楽の演目に「千手」(せんじゅ:「千手の前」)というのがある。 平重衡の無念を描いたもので、文隆氏の悲憤とはその成り立ちも因果も異なるが、「〽…目もあてられぬ気色かな」に思いは重なる。 「縲絏(るいせつ)の責」「雁書」「槿花一日の栄」等々に共通する憂憤は申すまでもなく、「〽…四面に楚歌の聲の中 何とか返す舞の袖。思ひの色にや出でぬらん涙を添へて廻らすも。雪乃古枝の枯れてだに花咲く千手の袖ならば。重ねていざや返さん 忘れめや」との謡に、文隆氏の怨念さえ垣間見える。 さらに、重衡の妻・輔子が遺骸を引き取り高野山に葬って日野に墓を建てたことは、文隆氏の妻・正子がソ連まで乗り込んで遺骨を持ち帰り …