【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
(その12)で述べたノーマンの近衛公に対する評価と比較するために、木戸幸一に対する記述を以下同様に述べてゆく。 (その12)と同様に「ハーバート・ノーマン全集 第二巻」(岩波書店 大窪愿二編訳)から引用。(≪≫内は筆者による注) ・「侯爵木戸(幸一)は、…」で始まる書き出しだが、近衛公の場合は「近衛は故近衛篤麿の長男で、…」であり、明らかに筆勢は異なっている。 “Duke Konoe”(近衛公爵)、“Marquis Kido”(木戸侯爵)とこの時点では呼称するのが礼儀であり、誤訳なども考えにくい。ノーマンが意図的に近衛公を犯罪者扱いとし、木戸には親しみを込めて爵位を付けた正式呼称を用いたと考え …
E・ハーバート・ノーマン(Edgerton Herbert Norman)は、明治42年9月1日に在日のカナダ人宣教師ダニエル・ノーマン(Daniel Norman)の子として長野県軽井沢町で生まれた。 敢えてこの人物に言及するのは、GHQに入り込んで日本の戦後を歪めた共産主義者であったばかりでなく、近衛公の生涯を大きく変えた木戸幸一・都留重人と並ぶ「三羽烏」と考えるからに他ならないらない。 もっと端的に申せば、近衛公を死に追いやった張本人であったからだ。 昭和8年(1933年)にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学を学んだ後、ハーバード大学に入学して父親の知人であったエドウィン・O・ …
昭和20年11月9日、芝浦の桟橋からランチ(launch:艦載の大型ボート)に乗せられた近衛公は、沖に停泊していた揚陸指揮艦「アンコン」(13,000t)に半ば連行された。 秘書であった牛場友彦が通訳を兼ねて同行したが、艦長室では戦略爆撃団の団長のポール・ニッツェが構えており、ウクライナ生まれのマルキシストのポール・バラン(都留重人のハーバード大学時代の先輩)が“ Mr.Konoe”とロシア訛りの英語で尋問を始めた。(牛場友彦氏の「風にそよぐ近衛」より、このアンコン号の部分は引用) まず最初に持ち出してきたのは、昭和16年4月30日に首相であった近衛公(第二次近衛内閣)がアメリカ政府に対し平和 …
昭和20年9月13日に、近衛公は接収された横浜税関にマッカーサーを訪ねたが、通訳の能力不足で実質的な話し合いにはならなかった。 そして、10月4日には通訳に奥村勝蔵氏(日米開戦時、ワシントンの日本大使館一等書記官。既述した、9月27日の天皇―マッカーサー会談でも通訳を務めた)を同行させ、有意義な会談となったと記録されている。 この会談の中で、近衛公はマッカーサー元帥から『…今日は“ definit ”のこと(確かなこと、の意)を申し上ぐ…』との前置きの後、『公がリベラルを集めて、帝国憲法を改正せらるべし。而も此の改正は出来得る限り急速に、一刻も早く成し遂げらるゝことを要す、而して是が公の国家に …
昭和20年8月23日、クレムリンでは「日本軍捕虜五十万人受け入れ収容、労働利用に関する決議」が、ソ連の国家国防委員会で行われたが、8月9日の侵攻から僅か二週間後にこのような決議が、何故これほど迅速に行うことができたのかという素朴な疑問が沸いてくる。 そして、「五十万人」という数字の根拠は何処にあり、どのようにはじき出したのかとの疑いも拭い切れず、むしろ丹念に、そして誰にも知られないように進めていた合意事項ではなかったかとの憶測を禁じられない。 同日、スターリンがワシレフスキー元帥に与えた指令では、「極東、シベリアの環境下での労働に適した日本軍捕虜50万人を選別せよ」というものであった。 (その …