【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
近衛文麿(明治24年10月12日~昭和20年12月16日)公は、第34代(昭和12年6月4日~昭和14年1月5日 在職:581日)・第38代(昭和15年7月22日~昭和16年7月18日 在職:362日)・第39代(昭和16年7月18日~昭和16年10月18日 在職:93日)と、3期(在職計:1035火)の内閣総理大臣の任命を受けたいわゆる五摂家(近衛・苦情・高塚・二条・一条)筆頭の公爵家に生まれ、後陽成天皇(第107代)の12世孫に当たる。 その血筋や風貌も含めた人心の期待が大きかったにも関わらず、(大東亜)戦前は「軟弱なゆるフン(褌)の近衛…」と評され、戦中は「和平主義者、敗戦主義者」、さら …
【先ず冒頭で、本稿その1の5行目、「五摂家(近衛・苦情・高塚・二条・一条)」の記述が間違っておりましたので、訂正してお詫び申し上げます。正しくは、「五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)」です。】 少年期から青年期にかけての運命の連鎖が、近衛公自身をして『社会に対してひがみの多い、憂鬱な青年』と評した人間像を形成していったであろうことは既に述べましたが、一方で人格形成同様にご本人の思いや努力とは無縁の処で「時代の寵児」としても運命付けられ、長身(五尺九寸余)・風貌も相まって「鶏群の一鶴」との趣きをもって人心を得た活躍が二十台後半から顕著になっていった。 大正7年11月3日夜、「英米本位の民主主 …
約10ヶ月に及んだ(11月18日帰国)パリ講和会議随行の記録は、翌年「戦後欧州見聞録」一巻として著されたが、「英米本位の民主主義を排す」で発揮された筆致と識見は随所に示されている。 そして、地球規模の陰謀とも言える共産主義の跋扈が日本をも席巻しはじめ、大正11年7月には日本共産党が結党、同年11月にはコミンテルンに加盟している。(コミンテルンが日本に「支店」を出したようなもの) 更にこの頃から、共産主義が背後で蠢いているとみられる事件が中国大陸で頻発し、日本国内でも虎ノ門事件(大正12年12月27日 迪宮裕仁親王―後の昭和天皇陛下―への暗殺未遂)など、関東大震災(大正12年9月1日)後の社会不 …
嵐の大海への船出となった第一次近衛内閣だったが、「暴支膺懲」発言を出さなければならないほど盧溝橋事件や通州事件(その3にて既述)以降の大陸での治安は悪化し、その対策として居留民保護の観点から国民の精神高揚を鼓舞するスローガンともなっていった。 「暴虐な支那を懲らしめよ」【暴戻(ぼうれい)支那ヲ膺懲(ようちょう)ス】という意味で、後に対米英への「鬼畜米英」と結びついて、「鬼畜米英、暴支膺懲」となり、戦闘精神を増幅させたことは戦後生まれでも理解できる。 昭和13年1月16日には有名な「国民政府を対手とせず」(近衛第一次)声明が出され、対支政策は混迷を一層深めていった。 昭和15年になりフランスの敗 …
その「無念と歯軋り」に移る前に、もうしばらく近衛公の生涯を時系列に沿って忠実に辿ってみたい。 第二次近衛内閣の組閣直前(昭和15年7月19日)に「荻窪会談」で因果を含めた筈であった松岡洋右外相を、外すための総辞職(≒閣内不一致)を経て第三次近衛内閣が組閣されたのは、昭和16年7月18日であった。 その独断専横ぶりはあまりに有名な松岡だが、日ソ中立条約を破棄してソビエトをドイツとともに挟撃する主張をしていたことは留めておくべきだろう。 親ソ連派(端的に申せば統制経済国家を標榜していた人々)が唱えていた「南進論」が勢いを増し「北進論」は影を潜めて、7月31日には東条陸相が『いまや支那事変の処理につ …