【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
アメリカ合衆国の第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(以下FDRと略す)は、1933年から1945年(昭和20年)4月(12日に死亡)までの12年間四期を、大統領として過ごしましたが、有名な1941年12月8日(現地時間)の「屈辱の日」演説は、待ち焦がれた日本民族粛清の開始宣言であったとする評価は、今や少数ではありません。そして、その執念の一端は一期目の就任式(3月)すら終えていない時にでさえ、早々と見出すことができるのです。 1933年1月、スティムソン・ドクトリンを大統領として支持する表明を行ったことに対し、R・モーレイとR・タグウェルがFDRを訪ねスティムソン外交の好戦性 …
もう死語となってしまった、「疎開」…。 昭和19年8月4日より始まったとされる我が国の集団での「学童疎開」は、云うまでもなく連合国軍(とりわけ米軍)の日本本土への空襲から吾が身を護るための避難でした。「疎開」や「空襲」は映画などに頻繁に出てくる聞き慣れた言葉ですが、これ迄は特に違和感もなく深く考えたこともありませんでした。年頭に74年前の昭和20年を学び直してみようと思いついたのが切っ掛けとなり、素通りしてきた「疎開」にスポットをあてゝ、歴史の中での成り立ちを掘り返してみたい。 「疎開」は日本だけに限られたものではなく、イギリス、フィンランド、スウェーデンなどでも記録が残されていますが、 …
前回の最後に列挙させて頂いたアメリカの弛まざる努力、言い換えれば排日と内政干渉によって、日本民族が「鬼畜米英」というスローガンを確立したことは、当時を生きていない私にも容易に想像ができる。 「ABCD包囲網」や「対日石油禁輸」、ハル・ノート手交がF・D・ルーズベルトにとって単なる仕上げでしかなかったことは、年表を丹念に振り返れば明白だし、今や定説ともなっている。 もちろん、これら一連の対日政策の延長線上に「東京裁判」があり、厄介なことに昭和27年4月28日まで及んだ「占領の置き土産」は現在に至っても健在であり、あろうことか後生大事にGHQのプログラムを守り続け、「鬼畜米英」に迎合し続けることが …
我が国日本は?と云えば、1853(嘉永6)年の浦賀へのペリー来航が端緒として有名だが、その80年近く前(1779年)から頻繁に「異国船」が通商要求の為に姿を現していた。 ペリー来航の翌年(1854年)、日米和親条約が調印され幕府の鎖国政策は終了、4年後の1858(安政5)年には、在日総領事のハリスに恫喝されて、日米修好通商条約なる不平等条約を押し付けられ、イギリス・フランス・ロシア・オランダからも同様の条約を結ばされた。(安政の五か国条約) 北米で先住民から土地を収奪したのと同じ本能によって、白人自作の「国際法」に基づいた条約によって完成を見たのであったが、周囲を海に囲まれているという固有の立 …
『あの無謀な戦争…』 『勝てる見込みのないバカな戦争…』 『日本の侵略戦争…』 大東亜戦争(第二次世界大戦)に浴びせられる悪意とプロパガンダ効果を目指したレッテル貼は数え挙げればキリがない。戦場に斃れた英霊の方々や、100万人を超えると云われる空襲や原爆投下で亡くなられた無辜の民に対する哀悼の意、或いは惜別の情がその源であり、凝視できない懊悩が原因であればまだ救われるのだが、東京裁判史観(自虐史観)に迎合し、戦勝国に対して卑屈な民族に成り下がったことによるものとすれば、やり切れない。 そして、更には自国の歴史を丹念に辿る努力さえも置き去りにして、近視眼的な屁理屈を繰り返しながら、鹿鳴館文化に …