【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
・大本営の失態の数々 金看板や幟は勇猛ではあっても細部は「軍部の独走」そのままの杜撰さで、「遺書」などに見られる上層部に対する呪詛や怨念の数々は、その身勝手さに対するもので溢れています。 優秀な成績で「立身出世」したエリートたちが、大本営の中で描き続けた盲目的で独善的な画餅でしかなかったと言う他ありません。 「枕木一本、死者一人」の泰緬鉄道(タイ~ミャンマー間)建設では、工事を指揮した旧日本陸軍や俘虜収容所関係者が捕虜への虐待・虐待致死の名目で、報復として被告席に立たされました。(BC級戦犯裁判) 常識外の突貫工事を強いたのは参謀たちであり、その難工事に食料や医薬品の補給さえも怠った参謀た …
「二日市保養所」を何人の方がご存知だろう? 福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)にあった「中絶病院」のことで、市民福祉プラザの展示コーナーにあったと言われる説明には、「帰国した女性患者のために温泉地である二日市に療養所が作られた」とだけ書かれてあったそうだ。(2016年5月:「忘却の引挙げ史」下川正晴著) 博多港には、139万2429人が引揚げたとされているが、ふるさと・日本の島影が見えた途端に海に飛び込んだ女性がおり、引揚者としては当然だが勘定されていない。身ごもった子どもをどうすればいいか、思いあぐねてのことだったと言われている。 「不法妊娠」「特殊婦人」(佐世保引揚援護局史)など …
近衛文麿(明治24年10月12日~昭和20年12月16日)公は、第34代(昭和12年6月4日~昭和14年1月5日 在職:581日)・第38代(昭和15年7月22日~昭和16年7月18日 在職:362日)・第39代(昭和16年7月18日~昭和16年10月18日 在職:93日)と、3期(在職計:1035火)の内閣総理大臣の任命を受けたいわゆる五摂家(近衛・苦情・高塚・二条・一条)筆頭の公爵家に生まれ、後陽成天皇(第107代)の12世孫に当たる。 その血筋や風貌も含めた人心の期待が大きかったにも関わらず、(大東亜)戦前は「軟弱なゆるフン(褌)の近衛…」と評され、戦中は「和平主義者、敗戦主義者」、さら …
【先ず冒頭で、本稿その1の5行目、「五摂家(近衛・苦情・高塚・二条・一条)」の記述が間違っておりましたので、訂正してお詫び申し上げます。正しくは、「五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)」です。】 少年期から青年期にかけての運命の連鎖が、近衛公自身をして『社会に対してひがみの多い、憂鬱な青年』と評した人間像を形成していったであろうことは既に述べましたが、一方で人格形成同様にご本人の思いや努力とは無縁の処で「時代の寵児」としても運命付けられ、長身(五尺九寸余)・風貌も相まって「鶏群の一鶴」との趣きをもって人心を得た活躍が二十台後半から顕著になっていった。 大正7年11月3日夜、「英米本位の民主主 …
約10ヶ月に及んだ(11月18日帰国)パリ講和会議随行の記録は、翌年「戦後欧州見聞録」一巻として著されたが、「英米本位の民主主義を排す」で発揮された筆致と識見は随所に示されている。 そして、地球規模の陰謀とも言える共産主義の跋扈が日本をも席巻しはじめ、大正11年7月には日本共産党が結党、同年11月にはコミンテルンに加盟している。(コミンテルンが日本に「支店」を出したようなもの) 更にこの頃から、共産主義が背後で蠢いているとみられる事件が中国大陸で頻発し、日本国内でも虎ノ門事件(大正12年12月27日 迪宮裕仁親王―後の昭和天皇陛下―への暗殺未遂)など、関東大震災(大正12年9月1日)後の社会不 …