【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
日本国内の「情報源」に加えて、GHQという言葉を使うと理解が複雑になるため、敢えて「マッカーサー司令部内」と「米国本国(国務省)」と置き換えて、その奇怪な「マグマ」の胎動を追跡してみよう。 その経緯こそが、GHQ占領下の日本での新憲法作成前夜における悲喜劇を構成していた、主な原因であり、近衛公の歯軋りの主因でもあった。 「日本の惨禍(49)」―近衛文麿公の65日間(1)―(p.3 18行目~20行目)で述べた通り、近衛公への憲法改正の委嘱に関するGHQの豹変は、「東久邇宮内閣崩壊総辞職によって消滅した」のでなく、「近衛側通訳の誤訳」でもなかったのであり、日本側の都留重人と木戸幸一の暗躍に …
戦争中は敗戦主義者・和平論者と攻撃され、戦後は戦争犯罪人にされた近衛文麿公の「歯軋り」について、随分紙幅を割いてきた。 隣人の意見に同調し易い日本国民の特徴を除いて、1931年には「三月事件」・「十月事件」(桜会によるクーデター事件)、翌年には「五・一五事件」、更に「二・二六事件」と続き、世界的な不況を背景とした中で、大正デモクラシーが声高に叫ばれ、一方ではそれらの動きを「非国民」と弾圧しようとする政府の姿勢などが対峙していた。 そのような時代背景の下、近衛文麿公は三顧の礼で第34代(第38代・第39代)内閣総理大臣に迎えられたのだ。 人はその社会的地位が高くなればなるほど、風当たりは強くな …
昭和20年10月10日、徳田球一と志賀義雄が府中刑務所から出獄してきたが、ふたりは連署して、『10・10声明』と言われる出獄声明を発表した。 『人民に訴ふ』との標語で、七項目から成っている。 【人民に訴ふ】 日本共産黨出獄同志 徳田球一 志賀義雄 外一名 ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための聯合国軍隊の日本進駐によって日本に於ける民主主義革命の端緒が開かれたことに対して我々は深甚の感謝の意を表する。 米英及聯合諸国の平和政策に対しては我々は積極的に之を支持する。 我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意 …
日本国内の状況を、前稿で述べた『10・10声明』に繋がっていったのかを、昭和初期頃まで戻って、念の為にもう少し振り返っておこう。 1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した「ヴェノナ文書」によって、「レッド・ハウス」と揶揄されてきたホワイト・ハウスの実態は明らかとなり、共和党のジョージ・ブッシュ大統領(第43代:George Walker Bush)はラトビアで、アルジャー・ヒス(Alger Hiss:アメリカの弁護士・政府高官だが、ソ連のスパイであった)が関与したヤルタ協定(1945年2月:ルーズベルト大統領、チャーチル英首相、スターリン露元帥という三首脳が、ソ連領クリミア半 …
前稿迄で、日本共産党の悪疾の成り立ちを丹念に述べてきたので、いよいよその本質について具体的に事例を挙げてみよう。 「日本の惨禍(54)」で述べた通り、GHQ によって監獄から解き放たれた共産主義者たちだが、大東亜終戦後の日本社会の最大の危機は、昭和35年5月~6月にかけて起きた、日米安全保障条約改定に反対した「六十年安保闘争」以外にはないだろう。 社共系の労働組合員や、全学連主流派だった過激派「共産主義者同盟」を中心とした学生たちが、連日のように国会や総理官邸を取り囲んだ。 当時の岸内閣は、自衛隊の治安出動をも考えざるを得ない状況に追い込まれていて、「六十年安保闘争」は深刻な影響をその後に迄 …