【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
我が国が蒙った惨禍の中で先ず挙げなければならないのは、広島と長崎への原爆投下であることに異論はないだろう。 紙幅の都合もあり、ここでは経緯や背景、そして当時の米大統領・トルーマンの言動など、既に詳しく述べられている事には敢えて触れず、一般庶民の視点・視野からの率直な記録を、そのまゝ引用してみたい。 「前夜は江田島、呉と空襲がおそくまで続き、その方角の空は夜明けまで真赤になっていた。 今朝は雲一つない晴天、主人は四日前に社用で出張し、今朝は帰宅の予定なので、朝食の仕度をしていた。その時、空襲警報が発令された。 広島人はアメリカに沢山移民として行っているし、京都は日本唯一の観光地なので、どちら …
「…神道及神社に対する公の財源よりのあらゆる財政的援助、ならびにあらゆる公的要素の導入はこれを禁止する。…伊勢の大廟に関しての宗教的式典の指令ならびに、官国弊社その他神社に関しての宗教的式典の指令はこれを撤廃すること。…役所、学校…の中に神棚その他国家神道の物的象徴となるすべてのものを設置することを禁止し、除去することを命令する…」(昭和20年12月15日 GHQ発令「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する覚書」) 「国家神道の廃止によって、天皇制の支柱となっていたものゝ、最後の根が引き抜かれ、破壊された…」 終戦の年の暮、12月15日に発令されたいわ …
副題の「近衛文麿公の65日間」とは、昭和20年10月12日から近衛公が自裁した12月16日(未明)の65日間であり、歯軋りが聞こえてきそうだ。 何故、その歯軋りに触れてみたいかと言えば、マッカーサー元帥より憲法改正のアプローチを受け、10月11日には昭和天皇陛下より「ポツダム宣言の受諾に伴い、大日本帝国憲法の改正の要否、もし、要ありとすれば、その範囲いかんについて、調査のうえ、奉答せよ」との命を拝し、その翌日(10月12日)の新聞紙面には「憲法改正準備、内府御用掛に近衛公、佐々木博士」という見出しが躍り、広く国民の注目を浴びた史実があったことによる。 マッカーサー元帥からのアプローチを受け、 …
前稿で、共産主義者がGHQの裏で暗躍していたことは、軽く触れておいたが、一部の者たちが蠢いていただけではなく、英ソの圧力がアメリカ・国務省に掛けられていたという国家規模の背景が存在していた。 その他ならない水先案内人は、1921年4月に創設(承認は、翌1922年)され、ボリシェヴィキ(コミンテルン)のテーゼと支援によって、冷血動物のような目つきで祖国を眺め続けてきた、ソ連共産党に育てられた日本共産党の面々であった。 「共産主義革命」、「暴力革命」、「武装闘争」等々、その都度活動方針やテーゼを改変しながら、あくまでも「自己都合最優先」を貫き続けてきた。 このようにして、新生日本の自主制定憲法は …
「ハーバート・ノーマン全集 第二巻」(岩波書店 大窪愿二編訳)から抜粋で比較してみよう。(≪≫内は筆者による注:下線は共産主義者) ・「父≪篤麿≫親は膨張論の熱烈な提唱者で、その目的のため東亜同文会のような膨張主義団体の後援者となった。」(p334 3~4行目) ・「その父親の膨張主義的関心に追随して、(中略)それ≪日支協会の会長≫に就任することで、近衛は、日本の膨張の「大東亜」計画におそらく一時的以上の関心を示したことがわかろう。」(p334~335 6・12~1行目) ⇒ 冒頭部分で先ず父親の篤麿公を引き出し、「膨張主義」と一方的に罵倒した挙句、文麿公の侵略性向を強調しているが、京都大学 …