【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
東京大空襲は、第二次世界大戦(大東亜戦争))末期にアメリカにより行われた、東京都区部に対する、M69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦、と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。 爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった。 東京都は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4 …
昭和20年8月12日、満州国鶏寧県麻生区(現:中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、哈(は)達(た)河(ほ)開拓団の開拓民のうち421名がソ連軍戦車と匪賊(満洲国軍反乱兵)の挟撃に遭い、戦死或いは集団自決したと言われている事件である。 既に、これまでに述べてきたように、テヘラン・ヤルタの会談でソ連の対日参戦は合意事項であったが、8月9日を期して機甲軍団を中心とするソビエト軍はソ満国境を突破、満洲国内に雪崩れ込んできた。 昭和19年頃より、南方へ日本本土へと兵力を抽出・転用されていた関東軍は、更に昭和20年7月以降の「根こそぎ召集」によって、老人・病弱者の老幼婦女子だけとなっていた。 …
占守(しゅむしゅ)島(とう)は千島列島の最北端(カムチャッカ半島のロパトカ岬とは、幅12kmの占守海峡を隔てゝいる)に位置し、全長25km、幅12.6km、周囲64kmの楕円形の島であり、面積はおよそ385平方キロメートルであり、沖縄本島の三分の一弱、硫黄島の約18倍の大きさである。 島のもう一方の端は、幅約2kmの幌(ぽろ)筵(むしる)海峡を挟んで幌筵島に接しており、千島列島(クリル列島)を形成しているが、得撫(うるっぷ)島以北の主たる島々(21島)は、昭和26年のサンフランシスコ平和条約によって領土権を放棄させられ、安政元年(1854年)の「日露和親条約」締結時に戻されている。 その占守 …
昭和19年8月22日午後10時12分、アメリカの潜水艦ボーフィン号が発射した魚雷は第二番船艙(左舷:学童を収容した真下)に命中、続いて第七番船艙(左舷:船尾一般疎開者の下)、そして五番船艙右舷側に三発目を食らって、対馬丸の船体は右舷に十度傾斜して、対馬丸は僅か11分後に沈没した。 悪石島真方位百三十七度、六・七浬(北緯二十九度三十三分、東経百二十九度三十分)沈没」という記録が、日米双方で作成された。 ボーフィン号(U.S.S Bowfin)の艦長ジョン・H・コーバス(John・H・Corbus)は、眼前で揚げた戦果を徴用船とは知らずに、「貨客船一隻撃沈」とだけ報告したと言われてい …
前稿「日本の惨禍(45)」でのアメリカの潜水艦ボーフィン号の暴虐に続いて、ソ連太平洋艦隊の潜水艦の攻撃により昭和20年8月22日に、北海道留萌沖の海上で樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二新興丸、秦東丸)がソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を取り上げておきたい。 「日本の惨禍(33)」で真岡郵便局の悲劇は、「風雪の門」というサブタイトルでご紹介させて頂いたし、前々稿「日本の惨禍(44)」では「占守島の戦」として、大日本帝国がポツダム宣言受諾後に降伏文書への調印意思を連合国へ通達した …