【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
―支那の抗日(8)― 通州事件②(1937年7月29日) 東京日日新聞が7月31日付け号外で、「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐極まる暴行」との見出しで報じた暴戻の数々を、様々な立場の人々の証言で振り返ってみよう。 ・安藤利男記者(社団法人 同盟通信社)の証言 生存者であった同盟通信記者であった安藤は同年10月、「虐殺の巷通州を脱出して」を日本外交協会で発表し、『通州兵変の真相』(森田書房)を刊行した。 安藤は戦後の昭和30年にも、『文藝春秋』に「通州の日本人大虐殺」と題して回想を発表した。 「前日あたりにさう云ふ気配はなかつたかと云ふことをよく聞かれるのでありますが、吾々は、誠にお恥し …
―支那の抗日(9)― 通州事件③(1937年7月29日) 【その他の日本人生存者の証言】 ・吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された新道せつ子は、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐)に預けたという。 ・当時中国人男性の妻であった大分県出身の日本人女性の目撃証言もあり、それを聞き書きした調寛雅が自著で発表している。 それによれば主犯は保安隊員と中国人学生であり、かれらは胎児を妊婦の腹から引きずり出す、その父親を数人がかりで殺して腸を引き …
―抗日の構図(1)― 支那の抗日・排日・悔日の原点は「華夷思想」( 漢民族が自国民を中華と称して尊び、異民族を夷狄(いてき)と称して卑(いや)しみしりぞけた思想)にあると言われているが、これまでに見てきた「惨禍」の数々がそれだけによるものなのか、更に検証を重ねて抗日の原因を探ってみよう。 三国時代以降を辿ってみると… 三国時代(220年~581年) 隋(581年~618年) 第二代煬帝の失政により滅亡 唐(618年~907年) 李淵が隋を滅ぼして建国 (907年~960年) 梁、後唐、後晋、後漢、周 宋(960年~1297年) 金に華北を奪われる迄を北宋、以降を南宋 元(127 …
―抗日の構図(2)― 共産主義がどのように支那を席捲・浸透していったのか、確認しておこう。 1919年1月24日「プラウダ」で、「共産主義インターナショナル第一回大会」への招請状が発表された(以下、「コミンテルン・ドキュメントⅠ・Ⅱ・Ⅲ」現代思想社1969年刊 J・デグラス編著 を主に参照) ・1919.3.2~3.6 共産主義インターナショナル第一回大会開催(モスクワ) 実質「第三インターナショナル」の創立大会(決定後の3/6に新聞報道) ※1920年3月~5月:尼港事件【「日本の惨禍(1)~(7)」】・1920.7.19(ペトログラード)~7.23(モスクワ)~8.7 第二回大会・1921 …
―抗日の構図(3)― 支那の抗日を、民族的な特性(24)と折から全世界に吹き荒れた共産主義という暴風雨の爪痕(25)から見てきたが、この稿では違った角度・視点から検証してみたい。 当時、既述の原因を除けば、先ず支那の反日・排日教育を挙げるべきだろう。 支那の小学校教科書は国定教科書ではなく、商務印書館や中華書局等の書店が編纂したものを採用していたので、書店としては売れ行きを良好にするために排日の記事を記載し、論調までもそれに沿って自ずと悔日となり、小学生の頃から反日思想を涵養していた。 大正8年(1919年:第一次世界大戦後のパリ条約-ベルサイユ条約締結の年)の反日初期の頃の小学校教科書を …