【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
前稿で、静寛院宮(和宮様)が薨去されたことは既に述べたが、それより遡ること凡そ12年、慶応元年(1865年)8月10日、和宮様とともに江戸に下向し大奥に住まっていた母・観行院が卒去(享年40歳)、母の病状が悪化した頃より和宮様はたびたび自ら観行院を見舞っていた。下向後も異郷の地で和宮様を支え続けた観行院であったが、元治元年(1864年)秋ごろより体調を崩す。江戸に常駐していた典薬寮医師や幕府の奥医師たちが発行した容態書には、「御気血御不順」「御心痛」「御小水不利」「水気」「御手足麻痺」などの症状が記されている。年末に一旦持ち直すが、年が明けて慶応元年(1865年)に入ると再び病状が悪化した。 …
前稿(67)の結びで、外圧(特に英国)からの影響が、家茂・孝明天皇の死に大きく係わっていた可能性があると述べたが、日本国内に目を転じた時、外圧のみが因子の一ではあっても、主因では必ずしもなかった。 「徳川幕府の創立者は、外に向かって鎖国の制を励行したるばかりでなく、中に於いては第一武家と公家の交通を杜絶した。此れは固より武家が公家に頼りて、朝廷に接近するを禁止する為であった。乃ち官爵位階の如きも、彼等は直接に朝廷から受くるを得ず、必ず幕府を経由す可きものとした。而して大名相互の結婚、養子なども、一々幕府の允許の下に行われた。されば大名と云ふも、其の権力の及ぶ所は、其の領内の士民に止り、其の自 …
前稿までと時間は前後するが、国史の分岐点とも言うべき慶応2年(1866年)の、歴史を司った義兄弟の死と、その疑惑について述べてみよう。 鎖国vs開国、佐幕vs倒幕、公武合体vs尊王攘夷、幕府と朝廷、各雄藩、そして脱藩志士の思惑が入り乱れ、血で血を洗うテロが相次いだ幕末の動乱期、形勢が倒幕へと傾く決定的なターニングポイントとなったのは、慶応2年1月に締結された薩長同盟であった。 「勤皇志士」と呼ばれているが、長州テロリストの自称であり、「明治維新という詐誕」の中で、学校教育などを通じて今日まで定着してきたに過ぎない。 「勤皇志士」=長州テロリストと直訳すらできる長州藩と、生麦事件の張本人(事 …
「新聞薈叢」(舊幕臣渡邊氏が秘蔵)には、薩長の孝明天皇福山動座計劃失敗の記述が残されており、慶応2年12月頃のものであろうと推察できる。 「皇室史の悲劇」の中で、筆者の瀧川政次郎氏は孝明天皇暗殺の斬奸状と認定していると述べている。 即ち、昭和24年12月、日本の留学生であった中国人・李軍光氏は、「再建評論」という雑誌に、「侍医の手記」と題して、次のような注目すべき記事を掲げておられる。李軍光氏の母方の大伯父・菅芝修は清を逃れて長崎に来て外科医を営んだが、後招かれて京都に到り、菅修次郎という日本名を名乗って文久3年(1863年)頃から閑院宮家の侍医となった。 この菅修次郎事菅芝修が漢文で書いた …
英国は、最も早くその王朝を滅ぼされた国であり、「太陽の沈まない時はない」と形容された大英帝国は、言葉を換えれば、イギリス帝国として軍事面、経済面、政治面で国力の劣る他国に介入し、その国の主権を侵害し続け、覇権(hegemony)を前面に押し立てゝ支配・統制することであった。 もちろん、支配・統制したのは大英帝国であり、「奴隷商人」というような悪名は白人たちが背負うことになったが、それらを覆い隠し、陰で糸を引いていた存在は、決して表舞台には現れて来ていない。 鵜飼いが、鵜匠に操られているように、「実行部隊」が脚光を浴びるばかりで、鵜匠の存在すら知らされることはなく、そのような事柄には興味がない …