【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
「1853年6月9日、幕府はペリーから米国大統領の親書・信任状を受領した。 孝明天皇は歴史始まって以来の国難と理解され、国体護持の祈り(外圧との戦い)を開始された。この年8月15日、詔「石清水八幡放生会に外患調伏を祈り給ふの宣命」を渙発された。 続いて9月11日、詔「神嘗祭に外患調伏を祈り給ふの宣命」を渙発された。 1854年11月20日、詔「賀茂臨時祭に外患調伏を祈り給ふの宣命」 1855年2月23日、詔「大神宮に奉幣して災変外患の攘除を祈り給ふの宣命」 1858年1月、幕府が日米修好通商条約調印の勅許を奏請する。天皇はその可否は諸大名の衆議をもってすべきと詔される。 3月12日、廷臣八 …
諺に、「鳶は鷹を産まない」「南瓜の蔓に西瓜はできない」というのがあり、更に支那の古書(「左氏傳」)には、「肉食者は鄙(いや)し」(生まれながらにして富貴の境遇にある者は、自ずから凡庸・懦弱・不肖者となる傾向がある)という指摘もあり、徳川末期に於いては、世襲の大名・旗本・上士が例外を除いて、概ね役に立たない代物となっていったのは、時運の趨勢であったのであろうが、清朝末期の満洲八旗軍が無用の長物であったように、三河武士を中枢とした旗本八萬騎も同様に、一切役に立たない存在となっていた。 「凡そ旧制度の頽廃は、新制度の発起を意味し、旧勢力の分解は、新勢力の凝結を意味す。我が孝明天皇時代の初期は、正に …
前稿で触れたように、「戊午の密勅」を契機として様々な事件が惹き起こされていったのだが、日本国内だけの勢力争い・権力争いに留まらず、外国からの「圧力」、有体に言えば「侵略」への抵抗・防衛本能が随所に顕れたのであり、現在の世相と同様に、「今だけ 金だけ 俺だけ」で由とする輩と、心底「国」憂える人々との間の「温度差」は、不幸にして既に顕在していた。 桜田門外の変は、令和2年11月17日脱稿の「桜田門外の変」で事件の概略を記したので詳細は割愛させて頂くが、何よりも原因となったであろうことは、将軍の統治能力が欠けてきて、天下の威信が失墜し、夷狄・外圧からの開国要求などが「戊午の密勅」へと繋がっていった …
惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも (錦絵に残る豪華絢爛な大行列とは裏腹に、宮の覚悟とご生涯が伝わってくる) 『其儀に就いては、平に御免を蒙る。妾(わらわ)は、父帝崩御の折柄、猶母君の胎内に在って、其後、四カ月を経て、生れ出たのである。 されば、父の御顔すらも拝せずして、お別れ申し上げたのは、朝な夕なに、妾の胸を痛める哀しみである。せめては、此の都に、永く滞り、父帝の御陵に参拝して、その亡き霊(みたま)に、孝養を盡したいと思うのである。 今俄に、関東へ下れば、其儀も叶わなくなるゆゑ、此一事は、如何に忍ばんとするも、忍ぶことの出来ぬ、事 …
文久元年(1861年)11月15日、中山道を下られた和宮の輿は江戸に到着し、江戸城北の丸の清水邸に入られ、12月11日には江戸城本丸への入輿を果たされた。 翌文久2年2月11日には、德川第14代将軍・家茂との婚儀が執り行われたが、家茂・和宮ともに16歳であった。 年端のいかない婚儀であったこと加えて、公武一和により、将軍家茂に譲位決行を決断させるとの思惑があり、和宮内親王ご自身も、その使命を十分に認識しておられたことは、前稿で和歌も引用して示させて頂いた。 井伊大老が日米通商条約の違勅調印したことに端を発した、朝廷と幕府の対立は、幕府が膝を屈する形で妥協が成立したのだが、「現在は外国と戦争 …