嘉永6年のペリー艦隊の浦賀来航以来、「外圧」もヒシヒシと押し寄せてきたことは、幾度となく述べさせて頂いたが、明治維新そのものが一種の政治革命であった為に、戦勝者(殊に薩長土肥)は都合良き歴史を編み、強いてその非を飾ったことも一再でなかったことも、今では周知の事実となっている。 例えば、明治初年に太政官歴史課においてその編纂に着手し、爾来前後十六箇年八箇月を費やして、漸く完成した代表的官選歴史とも言うべき「復古記」をみても、その体裁は、薩長土肥の軍隊を以って「官軍」と為し、幕軍並びにその一味に属する奥羽越列藩同盟の軍隊は、「朝敵」「賊兵」としている。 種々の陰謀策略が行われたことは云うまでも …
この続きは、ロンダンを定期購読頂くことで閲覧が可能です。
価格:月額1100円(税込)
ログインして閲覧する 会員登録して購入する