―漢口事件― 武漢三鎮(漢口・漢水・漢陽)とも呼ばれ、揚子江を挟んで中部支那の覇権中心地であり、国民党武漢派政府によって占拠され武昌と相対していたが、純商業地であった漢口とは裁然別観を呈していた。 在留邦人は、昭和元年(1926年)12月末現在で、男子1,272人、女子1,045人であり、合計2,317人を数えていた。 各国の租界は支那市街の東北に連なり、揚子江岸一帯の要所を占めていたが、日本租界(約50,000坪)は一番遅れて設置された為、英(約73,000坪)・露(約62,000坪)・仏(約34,000坪)・独(約126,000坪)の後となり、舊英租界からは最も離れており、商業区としてよ …
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