【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
慶応4年(1868年)正月に勃発し、1年5ヵ月に亘った「戊辰戦争」は、端を発した鳥羽伏見戦から四月の江戸開城までがその第一段階であり、「天皇政府」と「徳川政府」が将来の絶対主義的全国覇権を争ったもので、「戊辰戦争」の本質でもあった。 次の第二段階は、江戸開城によって全国政権としての性格を強めた「天皇政府(朝廷)」と、地方政権としての奥羽越列藩同盟との戦いであった。(あくまで、戦いの性格からの分類であり、隠された陰謀や欺瞞工作等その背景にあった出来事等は、考慮していない) 第三段階では、その天皇政府の支配下に入った旧幕臣の一団が、抵抗の拠点を蝦夷地の一角に求めたことから戦争が起った。蝦夷地に「 …
20年ぶりの新札発行に因んで、伊藤博文を取り上げてみよう。 1841年10月16日〈天保12年9月2日〉―1909年〈明治42年〉10月26日は、明治時代の政治家であり、ご承知の千円札紙幣(昭和38年11月~昭和61年1月4日)の肖像となり、知らない人はいないであろう著名人で、位階勲等爵位は従一位大勲位公爵が冠せられている。大久保利通らの路線を受け継いで初代内閣総理大臣に就任し、近代立憲主義社会の基礎を築いた。 四度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め、一次内閣時には大日本帝国憲法起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内 …
少し横道にそれてしまい伊藤博文に関して述べたが、敢えて彼ひとりに照準を充てなければならなかったほど、日本史上未曽有の逆賊であり、売国奴を代表する人物であり、筆者が「明治維新」が革命であったと考えて止まない論旨の原点ともなっている。 前々稿で記したように、「輪王子宮が十万石以上の同盟諸藩に出した令旨には、「薩賊」が摂関・幕府を廃したことを、「大逆無道、千古この比なし」とはげしく非難し、その討伐をも委嘱した。 列藩同盟の意図するところでは、もはや「会津救解」ではなく、王政復古政変後の政体の否認であり、ここでも「外圧」(「局外中立」を謳い文句とした、イタリア公使、フランス公使〈ロッシュ〉、プロ …
前稿で、『誰もが初めて見る「錦旗」の下』と述べたが、会津戊辰戦争の悲劇を一身に担ったと言えば、白虎隊が筆頭に挙げられるだろう。 すべてが16~17歳の少年たちがその主人公(中には、年齢を偽ってまで参加した者も居た)であり、飯森山での集団自刃は涙なしには語れない。 確かに、その場面が幕末の会津藩という特殊な時空で形成された日常の思想であったとしても、武士たる者は、一朝有事に際しては、主君のために身命を捧げることが、忠であり、孝である至大善事であると、幼少より家庭学堂に於いて教育され、心魂に徹していたであろうことを想起しなければならない。 それにしても、「錦旗」はどのようにしてその場に存在 …
前稿で、鐘をつく老人と若干9歳の小児の自刃が同じ延長線であったように思われると述べたが、今を生きている我々には想像すら覚束ない価値観、敢えて大仰に申せば、その「掟」が桁違いに異なっていたのかも知れない。 詳細は省かせて頂くが、「白虎隊」はその身分によって、士中(上級武士の子)一番隊・二番隊、寄合(中級武士の子)一番隊・二番隊、足軽隊に分けられていた。 士中隊の主な任務は藩主父子の護衛であったが、戦いが激しくなると前線にまで出撃した。最前線に取り残され、飯盛山で自刃した白虎隊は士中二番隊の少年たちであった。しかし、その年齢からもわかるように、あくまで予備の予備とされるべき部隊であった為、支 …