【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
前稿までゞ、我が国に対する外圧や「影の軍団」の存在をこの稿を通じて述べてきたが、歴史書の中には、陰謀史観や史実の捏造に対する警鐘、そして客観的な視点に対する指摘まで、今も存在している。 更には、「フリーメーソン」に対して、国際的陰謀を企む秘密結社などではなく、「社交クラブ」のような存在であったとする説すらある。 確かに、我が国が列強の侵略をまともに受けなかったのは、極東の島国という地政学的な立地で侵略コストが掛かり過ぎることや、英国とロシア(この時点ではロシア革命以前であり、ソ連とはなっていない)の戦略上の角逐、侵略そのものに対する危機意識の高さ等々が挙げられるが、列強そのものゝ「征服意欲」 …
前稿の坂本龍馬に続いて、「維新三傑」のひとり西郷隆盛をみてみよう。 「徳川慶喜が虜になった男」とも称されている西郷隆盛は、文政2年(1827年)、鹿児島城下の下鍛冶屋町山之口馬場に、在村郷士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれ、幼名小吉、16~17歳頃には吉之助を名乗った。 雅号は南洲、変名は菊池源吾、大島三右衛門など複数があった。 在村郷士は、薩摩藩での身分は普段の暮らしでは農民であったが、十等級の下から二番目であっても、れっきとした武士であり、自尊心は強かった。 弘化元年(1844年)、数え歳18歳になった西郷は、郡方書役助の役職に就き、農村を回って年貢を取りたてる末端の役人となった。 …
「維新三傑」の大久保利通と木戸孝允だが、何れも「岩倉使節団」の副使として洋行し、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため欧米を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、欧米の進んだ文化だけでなく、アヘン常用者や悲惨な貧困窟が存在するイギリス、フランスの労働者街の困難、ロシア農村の窮状など、資本主義の不完全性や危険性をも視察して帰国した。また、それまでの市民革命的な立場を改め、資本主義の全面展開に疑問を持つようになったとされている。 しかし、多少穿った見方とはなるが、それら見聞を広めた光景は誰によって示され、案内を受けたものであったのだろう。 名所旧跡を巡るツアーで …
我が国史の中で「最大の汚点」と言われる、戊辰戦争(会津藩・奥羽越列藩同盟)について述べさせて頂こう。 「外圧」がもたらした維新への時の流れは、目覚ましい規模と速さで幕末の「泰平の夢」を打ち砕き、慶応3年(1867年)には10月14日に大政奉還、12月9日には王政復古の大号令が発せられ、德川幕府は瓦解した。 そして、翌年1月3日には鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、「天皇の意志に基づき、それを妨げる賊臣を討つ」という元来の大義は、薩長軍が掲げた「錦旗」により、旧徳川幕府軍が賊臣であると宣言されてしまった。 「討幕の密勅」が偽勅であったかどうかをともかく、この「錦旗」も西郷と岩倉の共謀により …
嘉永6年のペリー艦隊の浦賀来航以来、「外圧」もヒシヒシと押し寄せてきたことは、幾度となく述べさせて頂いたが、明治維新そのものが一種の政治革命であった為に、戦勝者(殊に薩長土肥)は都合良き歴史を編み、強いてその非を飾ったことも一再でなかったことも、今では周知の事実となっている。 例えば、明治初年に太政官歴史課においてその編纂に着手し、爾来前後十六箇年八箇月を費やして、漸く完成した代表的官選歴史とも言うべき「復古記」をみても、その体裁は、薩長土肥の軍隊を以って「官軍」と為し、幕軍並びにその一味に属する奥羽越列藩同盟の軍隊は、「朝敵」「賊兵」としている。 種々の陰謀策略が行われたことは云うまでも …