【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
昭和天皇独白録第二巻より引用する。 「…一番防備の出来てる筈の鹿児島半島の部隊でさへ、対戦車砲がない有様で、兵は毎日塹壕堀りに使役され、満足な訓練は出来て居らぬ有様だった相だ。 之を聞いて私は自分の見透の間違でないことを知った。 当時私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は滅びて終ふ、私は赤子を保護する事ができない。 第二には国体護持のことで木戸とも同≪原文は俗字≫意見であったが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」 …
復員兵・引揚者を含めた日本国民の殆どが腹を空かせて「ひもじい」思いをしていた横で、赤やピンクに染まったGHQの面々にすき焼きを振舞っていた売国奴の更に横では、近衛公の憲法改正の作業が続けられていた。【(その10)より引用:近衛公は、早速昭和天皇に奏上して御下命を取り付けた上、10月8日には高木八尺・牛場友彦・松本重治とともにGHQのジョージ・アチソン政治顧問を訪ねて打ち合わせの上、本格的に憲法の草案作りに乗り出していた。更に、佐々木惣一元京都帝大教授にも協力を仰ぎながら、審議会を設置し、枢密院の議事を経て議会にかけることにしていた。】 既述の通り、11月1日の夜に発せられたマッカーサーの『 …
(その12)で述べたノーマンの近衛公に対する評価と比較するために、木戸幸一に対する記述を以下同様に述べてゆく。 (その12)と同様に「ハーバート・ノーマン全集 第二巻」(岩波書店 大窪愿二編訳)から引用。(≪≫内は筆者による注) ・「侯爵木戸(幸一)は、…」で始まる書き出しだが、近衛公の場合は「近衛は故近衛篤麿の長男で、…」であり、明らかに筆勢は異なっている。 “Duke Konoe”(近衛公爵)、“Marquis Kido”(木戸侯爵)とこの時点では呼称するのが礼儀であり、誤訳なども考えにくい。ノーマンが意図的に近衛公を犯罪者扱いとし、木戸には親しみを込めて爵位を付けた正式呼称を用いたと考え …
E・ハーバート・ノーマン(Edgerton Herbert Norman)は、明治42年9月1日に在日のカナダ人宣教師ダニエル・ノーマン(Daniel Norman)の子として長野県軽井沢町で生まれた。 敢えてこの人物に言及するのは、GHQに入り込んで日本の戦後を歪めた共産主義者であったばかりでなく、近衛公の生涯を大きく変えた木戸幸一・都留重人と並ぶ「三羽烏」と考えるからに他ならないらない。 もっと端的に申せば、近衛公を死に追いやった張本人であったからだ。 昭和8年(1933年)にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学を学んだ後、ハーバード大学に入学して父親の知人であったエドウィン・O・ …
昭和20年11月9日、芝浦の桟橋からランチ(launch:艦載の大型ボート)に乗せられた近衛公は、沖に停泊していた揚陸指揮艦「アンコン」(13,000t)に半ば連行された。 秘書であった牛場友彦が通訳を兼ねて同行したが、艦長室では戦略爆撃団の団長のポール・ニッツェが構えており、ウクライナ生まれのマルキシストのポール・バラン(都留重人のハーバード大学時代の先輩)が“ Mr.Konoe”とロシア訛りの英語で尋問を始めた。(牛場友彦氏の「風にそよぐ近衛」より、このアンコン号の部分は引用) まず最初に持ち出してきたのは、昭和16年4月30日に首相であった近衛公(第二次近衛内閣)がアメリカ政府に対し平和 …