1.作法に必要な論理と想像力
「型」は理論
茶道では「袱紗捌き」があります。
何何度も袱紗を広げて、また折りたたみます。
お茶の道具を拭くために必要な行為ですが、面倒に思えます。
短期間ですが茶道を習ったことがあります。
その時に、袱紗捌きの本当の意味が理解できました。袱紗の清潔な面でお茶の道具を拭き清める。そのために、広げ折り返すのだということがわかったのです。
袱紗に余計な皺をつけず、必要以上に袱紗を広げないで、常に清潔な面をお道具に当て清めるための無駄のない動きです。それが、袱紗捌きの「型」として継承されてきています。
作法にも様々な「型」があります。
夜露キビ事や悲しみ事の儀式から、歩く、立つ、座るなどの日常動作に至るまでの所作が「型」となります。
ひとつひとつの「型」には全て意味があります。例えば「座る」動作は、左右どちらかの脚を半歩引いて、真っ直ぐ下に腰を沈めて、引いた脚の膝が先に下に着き、もう一方の脚の膝を揃え、足の甲を返して静かに座ります。この一連の所作は、座るときに音を立てない、埃を立てない、体がぐらつかせないための座る「型」です。
儀式の場では、御祝儀などのお金を袋に入れて、袱紗にお金の入った袋ごと包みますね。これは、昔から金銭には人の邪念が入りやすいので、白い紙で浄化します。
そして白い紙、現代では袋ごとお相手に受け取っていただくので、袋や紙が汚れないように袱紗に包んで持参します。
お金を袋に入れさらに包むのは、お相手にお渡しする物に埃や汚れ付かないようにという心配りです。
「型」通り行うことは、難しくて時間を無駄にするように考えがちです。
実は逆で一番無駄がなく、効率よく、失敗のリスクが少ないのです。
ただ、いつもスマートで美しく行うには体にその「型」を覚えさせなければなりません。一朝一夕では体は覚えてくれません。繰り返し稽古をするしかないのです。体が覚えていないと、必要な時に「型」通りの美しい所作はできません。まして日常動作は、長い間のご自身の癖があるので常に意識していないと、すぐに癖が出てしまいます。私が所属している作法会では、10年経ってもお稽古には必ず、立礼、座礼、立ち方、座り方という基本所作を繰り返し稽古します。
何年も何度も繰り返しお稽古をして、体に覚えさせ、自然と動けるようになってこそ「型」が身についていると言えるのでしょう。頭で考えて行っているときは、まだ身についていない、ぎこちない動きになります。そのぎこちない動き方は、見ている人に不安を与えます。
反対に、体が自然に動き、流れるようにさりげなく美しい所作は、その空間を爽やかな場所にしてくれるのではないでしょうか。
想像力が必要
型は理論的に説明できますが、いつも同じ型の動きをすればよいのではありません。時には基本の「型」を破ることも必要な場面があります。
その場面に最もふさわしい行動を、自然体で動くことができれば、作法が身についているといえます。そのためには、今どのような動きをすれば、どのような言葉遣いで、どのような表情をお相手に向けたらよいのか、一瞬の判断が必要です。いろいろな場面でお人の気持を慮るという想像力が試されるのです。
しかしながら、やはりまずは「型」を身につけることです。体に覚えさせて、自然と型の動きができるようになるには、繰り返しのお稽古が必要です。やがて、身に着いたらその「型」の意味を考えてください。
そのうえで、型の動きをするのか、あるいは型を破るのか。その判断ができるようになるには、想像力豊かな感性が必要になってきます。
型を身につけるには繰り返しのお稽古です。繰り返し稽古をしているうちに、型の意味が自然と認識できるようになります。これは不思議ですが、体得というのか、ある日腑に落ちることができます。
ただ、豊かな想像力を身につけ感性を磨くには、いろいろな本を読んだり、年齢や職業の違う人と接したりすることが大事になります。また、自然に接し、季節の移り変わりを感じたりすることも重要な要素となります。
基本の型を身につけて、時には型を破るのが「型破り」であり、型を学ばず、勝手に行うのが「型無し」です。