「新聞薈叢」(舊幕臣渡邊氏が秘蔵)には、薩長の孝明天皇福山動座計劃失敗の記述が残されており、慶応2年12月頃のものであろうと推察できる。 「皇室史の悲劇」の中で、筆者の瀧川政次郎氏は孝明天皇暗殺の斬奸状と認定していると述べている。 即ち、昭和24年12月、日本の留学生であった中国人・李軍光氏は、「再建評論」という雑誌に、「侍医の手記」と題して、次のような注目すべき記事を掲げておられる。李軍光氏の母方の大伯父・菅芝修は清を逃れて長崎に来て外科医を営んだが、後招かれて京都に到り、菅修次郎という日本名を名乗って文久3年(1863年)頃から閑院宮家の侍医となった。 この菅修次郎事菅芝修が漢文で書いた …
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