「歴史は真実の積み記」

大東亜戦争(第二次世界大戦)から、日本が奪われ続けてきたもの。
このチャンネルでは筆者が現代の日本人に警鐘を鳴らすため、歴史に埋もれている事柄から読み取ることのできる諸外国の動向、
現代の日本人に必要なものとはについて発信していきます。

日本の惨禍(1)-尼港事件(1)

―尼港事件(1)―

 「日本の惨禍」と題して、「被害者としての日本史」を振り返ります。
 よく、「侵略戦争」「世界や近隣国に迷惑をかけてきた日本」という言葉を耳にしますが、その評価が正しいのかも含め、各事件の詳細を掘り下げながら、惨禍の因果を検証して、あまり知られていない被害史を思い返します。

 まず尼港事件だが、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけて、アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港:現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件で、本論の前に背景をも遠回りもしながら、述べさせて頂く。

 直接関係があると指摘されている「シベリア出兵」だが、ウィキペディア(Wikipedia)によれば、「第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争(ここで言われる【干渉】は、共産主義勢力のプロパガンダ)のひとつ。日本史の外交上最も失敗した外交…」と解説されているが、日清戦争後の「三国干渉」はじめ、日露戦争後の「ポーツマス条約」に大衆が不満をぶつけた日比谷焼討事件でも見られたように、領土獲得への利権(樺太の北緯50度以南しか割譲されず)の喪失感、更には地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満洲、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあったことを、度外視することはできない。
 すなわち、日本の政体(国体)である立憲君主国家と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があった。
 端的に申せば、「共産主義」そのものが一部の革命志向に被れた人々によってもたらされ、拡散されたものであり、その中心はマルクスに代表されるようにユダヤ民族であり、この稿でその評価は避けるとしても、彼らは例えばドイツ国内に於いては、フランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)に住まわされていたことは、揺るぎない歴史上の事実であり、他の民族とのコンセンサスが得られずに、「鼻つまみ者」であったことも記録として残っている。
 従って、「パルチザン」をはじめとする暴力支配を駆使することで、存在意義を認めさせるしかなかったのが、ボリシェヴィキの特異性であったことは、この論考を通じて基盤となるものであり、先ず確認しておきたい。

 1917年(大正6年)3月12日、ペトログラードで誕生した「ソヴィエト」(自治評議会)により、およそ300年間にわたりロシアを支配してきたロマノフ王朝は滅びたが、その臨時政府から「10月革命」によって更に政権を奪取したのは、「ボリシェヴィキ」を名乗る共産主義者たちだった。
 もちろん、首領はウラジミール・レーニンであり、これらユダヤをルーツとするマルクス一派の狂暴で冷血な特性はソ連崩壊後の今も変わらないし、この時以降の「日本の惨禍」(ばかりでなく、全世界のすべての不幸と災い…)に例外なく関与し続けてきたことを、(くど)いが改めて指摘しておく。

 「革命によってロマノフ王朝は滅ぼされた」と言われているが、その終焉の惨劇を敢えて丁寧に見ておきたい。
 それは、1917年3月に革命軍によって、ツアルスコイヱ・セロ(現在:プーシキン)の宮殿に監禁されていたニコライⅡ世一家の惨殺の真相と、バイカル湖上の25万人を含む125万人の「死の退避行」である。

 反ボリシェヴィキを旗印としたアレクサンドル・ヴェー・コルチャック提督の率いる「オムスク政府」は、皇帝派の軍隊と解放された多数のチェコ軍捕虜で組織した白露軍をもって、皇帝とその家族を救出するために全力をあげ、1918年(大正7年)7月にはエカテリンブルク(現在:スヴェルドロフスク)の町を包囲するに至った。
 しかし「赤軍」の共産主義者たちは、皇帝を白軍に奪い返されるとボリシェヴィキの勢いが削がれ、革命達成が覚束なくなると考えて、唯一の方法がニコライⅡ世一家を皆殺しにすることだとして、モスクワ中央政府よりエカテリンブルク労農委員会への指令がくだされた。
 7月16日の夜おそく、皇帝とその家族・従者数人(皇帝・アレクサンドラ皇后・皇太子・四人の皇女・侍医ボトキン・皇后付き女中アンナ・コック・従者の計11名)は、この指令の委任を受けた衛兵司令のヨーロフスキーより「露帝に町中で戦闘がおこり、次第にこちらの方にひろがりつつあるので、一時安全な場所に避難するから、大急ぎで支度するように…」と申し渡された。
 避難させられたのは、宿舎であったイパチェフ家地下の衛兵詰所だった。
 「あなたは、白露軍が救いに来ると思っているかも知れないが、彼らは来はしない」と、厳かな口調でロマノフ王家の人々に語り出し、更に続けて「あなたはイギリスに行って、再びロシアの皇帝になれると考えているかも知れないが、それもできない。ウラル労農委員会は、あなたがロシア人民に対して、犯した罪により、あなたとその家族を死刑にすることに決めたことをここに宣告する」と言い終えると、皇帝の顔面をめがけてヨーロフスキーはナガンの連発銃を発射した。
 虐殺三人部隊のピョートル・エルマコフは皇后に向け、更に間髪を入れずに侍医のボトキンにもモーゼル銃を発射した。
 残るひとりのヴァガノフ(水夫あがりのエルマコフの助手)は皇女たちに、モーゼル銃から弾を浴びせ続けた。
 女中のアンナはふたつの枕を抱えて隅に隠れていたが、その枕には宝石箱が入れられていたことが後に分かったと言われている。
 部屋の外で待機していた地区委員たちが呼び込まれ、棍棒や銃剣で留めをさして回った。
 映画「追想」(イングリッド・バーグマン:ユル・ブリンナー)にもなった第四皇女・アナスタシアの生存伝説は、三人の銃殺隊による超法規的殺害(裁判手続きを経ない処刑)の理不尽さと、ボリシェヴィキならではの残虐非道な行為であったこと、埋葬などの正確な記録が残されておらず、更には「ニコライⅡ世は処刑されたが、他の家族は安全な場所に護送された」という偽情報(ソ連特有のプロパガンダ)を流し続けたことなどが、噂の広まりを助長した。(ルネ・エスカッシュ「生きている屍、ロシアのアナスタシア姫」、マルセル・モーレットの戯曲「アナスタシア」etc.)

 1919年(大正8年)11月、帝政ロシアの提督アレクサンドル・ヴェー・コルチャックがイギリスの援護の下、反革命軍として樹立した西シベリアのオムスク市の独立政府は、革命軍に占領されるに至った。
 再起を後日に期そうと、コルチャック提督は50万の軍隊と75万の亡命者を伴い、シベリアを横断して太平洋岸に退く決意をした。
 しかし、地球上で最も寒いところはオムスクの東・トムスクに近いタイガ地方であると言われており、しかも季節は真冬に向かっていた。
 気温は毎日氷点下20度を下回り、激しい吹雪などで凍死者が続出し、20万の人間が一晩で凍死した日もあった。(ノボ・ニコライエフスク付近)
 それでも、「死の行進」は休むことなく続けられ、3ヵ月後には125万人がたった25万人となってしまった。燃料、食料も底をつき、運搬用の馬も次々と倒れた。
 残った25万の人々は、それでもなんとか2000キロ離れたイルクーツクまでたどり着いた。しかし、人々の前には凍った巨大なバイカル湖がたちふさがっていたのだ。  
 湖の向こう側にいけば、赤軍の手から完全に逃れられる。最後の力を振り絞って人々は厚い氷に覆われた、巨大なバイカル湖を横断しはじめた。ところが自然はそれを許してはくれなかった。
 前代稀に見る激しい寒波が彼らを襲った。猛吹雪により気温は氷点下70度まで下がり、一瞬にして意識を失うほどの強烈な寒さで、人々は歩きながら次々と凍っていき、そして死んでいった。
 もはや湖面上に生きているものは存在しなくなった。
 バイカル湖の湖面にて、退避行の白軍は全滅した。
 春が来て雪解けの季節となり、バイカル湖の湖面の氷が溶け出した。25万の凍死者の屍は、ゆっくりとバイカル湖の水底深くに沈み去った。
 (バイカル湖の面積は琵琶湖の46倍もあり、また、水深も 1,643mと世界で最も深い。)
 コルチャック提督は、バイカル湖上に逃れ出る前の1920年2月にイルクーツクで、赤軍(ボリシェヴィキ)に捉えられ、反革命の罪で刑場の露と消えたが、この退避行を提督の科として非難する論調も多い。
 それは、共産主義に拝跪して(したた)めた評論であり、そのようなプロパガンダに好都合な論評を、ボリシェヴィキたちが見逃す筈もないのだ。
 日本の「シベリア出兵」にも、『前代未聞の(とく)()(道理を外れた戦争で武威を汚すこと)』『大義名分なき戦争』などの評価が残されているが、果たしてそうなのだろうか?
 各国の王朝が悉く粉砕されてゆくさまを、息を凝らして注視してきた日本が、「防共」を喫緊の課題と捉えていたのはむしろ当然であり、列強の要請に応じた出兵を、多くの犠牲と戦費を費やしたとの結果論のみで断じるのは浅慮と言わねばならない。
 突如勃興し持ち前の暴力性で、各地で王朝を破壊し続けていた勢力…。
 「共産主義」という現代では破綻した、矛盾だらけの思想を背景としながら、世界制覇を目論んでいた「凶漢」に対する当然の抵抗ではなかったか?
 評論家の中には「干渉」という単語を用いて、この「シベリア出兵」を印象操作しようとしている人も多く、古今を問わずそのような論評を含んだ書籍も数えきれないが、日本の近現代史の要諦にあたる共産主義の弊害を、冷静且つ正確に真正面から捉えない限り、正しい史実に辿り着くことはできない。

日本の惨禍(2)―尼港事件(2)―

ロンダン-「歴史は真実の積み木」

「歴史は真実の積み記」 
過去記事一覧

テキストのコピーはできません。