その「無念と歯軋り」に移る前に、もうしばらく近衛公の生涯を時系列に沿って忠実に辿ってみたい。 第二次近衛内閣の組閣直前(昭和15年7月19日)に「荻窪会談」で因果を含めた筈であった松岡洋右外相を、外すための総辞職(≒閣内不一致)を経て第三次近衛内閣が組閣されたのは、昭和16年7月18日であった。 その独断専横ぶりはあまりに有名な松岡だが、日ソ中立条約を破棄してソビエトをドイツとともに挟撃する主張をしていたことは留めておくべきだろう。 親ソ連派(端的に申せば統制経済国家を標榜していた人々)が唱えていた「南進論」が勢いを増し「北進論」は影を潜めて、7月31日には東条陸相が『いまや支那事変の処理につ …
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