【生年月日】 昭和25(1950)年4月27日(現在71歳) 【学歴】 甲南大学経済学部卒業 報徳学園高等学校卒業
「最後のサムライ」と称された河井継之介は、幕末(~慶応4年)の長岡藩の人物(文政10年:1827年1月27日~慶応4年:1868年10月1日)で、藩内でも中堅どころの家柄であり、慶応4年(1865年)には郡奉行に抜擢されて、当時の情勢不安の中で藩制改革を主導し、役職を重ねながら藩の実力者となってゆく素地があったと考えられる。 継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格加判」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。ちなみに『長岡市史』では町奉行は番頭兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い。 …
現代のように情報が溢れた時代とは異なり、耳目の届く範囲の限られた江戸時代にあっては、黒船の所為で「たった四杯で夜の眠れず」の状態が如実に言い表していたのだろう。 そのことにしても、実際に「黒船」を目の当たりにしたのはほんの一握りであり、多くの人々は人づてに聞いたに過ぎなかった筈だ。 その明治維新の大義は、「天朝への恭順」であり、王政復古により神武創業という肇国の原点に立ち返り、列強の侵略圧力を撥ね退ける堂々たる国家になることであった。 しかし、新政府(薩長藩閥政府)は欧米に諂いながら、その外国文化の移入を急ぐあまり、前稿までの「戊辰戦争」を見ても分かるように、我が国民族が長い歳月の蓄積 …
「維新三傑」と言われる西郷隆盛翁は、何者だったのだろう? 西南戦争により逆賊扱いとされたが、明治22年(1889年)2月11日に、褫奪されていた正三位を追贈されて名誉回復が行われた。そして、1902には、西郷の遺児寅太郎が隆盛の維新の功で侯爵に叙され、華族に列した。 しかし、敢えて「三傑」とまで呼ばれた立役者が、その最期には「賊軍の大将」としてあっさりと葬り去られた生涯への鎮魂歌が、今も衰えない西郷人気の原点であり、秘密とは言えないだろうか? 明治6年(1873年)11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごしたときの様子を、九十八歳まで存命した温泉宿の女将福村ハツが昭和 …
前稿(「日本の惨禍〈84〉」)迄で、我が国の幕末から明治維新に掛けての凋落と様変わりの状況を述べて、そこに介在していた売国奴たちを主として描いてきたが、それらに対する異論・反論はさて置き、再度、嘉永6年(1853年)の蒸気船に視点を戻してみよう。 1849年、オーガスト・ベルモントとペリーの娘キャロラインが結婚(但し、wikipediaには、“Caroline Slidell Perry”と配偶者の欄に記されているのみであり)、別の項目でも、「アメリカンジョッキークラブの会長を務めるなどアメリカ競馬界の重要人物の一人であり、アメリカクラシック三冠の3冠目ベルモントステークスに名を残すオーガ …
ユダヤ人、バーナード・ジャン・ヘッテルハイムという男が居た。 1811年にハンガリーでユダヤ人の子として生まれ、ラビ(ユダヤ教の僧)になるべく教育を受けたが、1836年(25歳)にイタリアのパドヴァで医学を学び、エジプトを経て、その後トルコに渡った。 1840年(29歳)、トルコの地中海に面した都市スミルナでキリスト教に改宗し、イギリスに渡ってイギリス国教会で洗礼を受けた。そしてイギリス人女性と結婚し、イギリス国籍を取る。 ここにハンガリー生まれのユダヤ人が、イギリス国教会のイギリス人に生まれ変わる。名前も変えることが多いが彼は名前はそのままだったようである。 35歳になったこのユダヤ …