「祖国根元在国史令明」

大東亜戦争(第二次世界大戦)から、日本が奪われ続けてきたもの。
このチャンネルでは筆者が現代の日本人に警鐘を鳴らすため、歴史に埋もれている事柄から読み取ることのできる諸外国の動向、
現代の日本人に必要なものとはについて発信していきます。

関東軍は何故逃げたか?

 「…好は、私に母の飯盒を洗いよく乾かすようにと言った。『それがお母様の骨壺よ。』時計が九時を鳴らすと、私たちは荷物を背負って火葬場へ向かった。到着するとすぐに羅南からずっと持ってきた箸で、私たちは丁寧に母の小さな遺骨を …

 「…好は、私に母の飯盒を洗いよく乾かすようにと言った。『それがお母様の骨壺よ。』時計が九時を鳴らすと、私たちは荷物を背負って火葬場へ向かった。到着するとすぐに羅南からずっと持ってきた箸で、私たちは丁寧に母の小さな遺骨を飯盒に入れた。…」(「竹林はるか遠く」より引用―以下引用は書名のみ)

 飯盒を母親の骨壺にしなくてはならなかった姉妹の悍ましい事情を、史実に従って振り返ってみたい。満洲からの引き揚げを記した手記や歴史書に、「竹林はるか遠く」と同じような悲惨な記述が多い。また、その責を一様に関東軍に求める声も少なくない。

 確かに、「精鋭を誇った関東軍が先を競って逃げている。実に情けない姿である。同じ日本人でありながら、あげくの果てには民間人の我々を乞食扱いにし、実に非協力的であった。特に憲兵の横暴は著しい。」(「生きて祖国へ 流亡の民 満洲編【上】」)と怒りに満ちている。

 更に、「ソ連参戦直後に関東軍の軍人軍属の家族が、新京からいちはやく平壌に疎開したこと、おなじころ満鉄社員の家族も平壌近郊に疎開したことを知った。軍人軍属の家族だけをいちはやく逃がし、国境の開拓民はじめ、在満市民を見捨てた関東軍当局の措置はどうしたものであろうか。軍隊は抽象的な国権を守るのではなく、生きた国民の生命・幸福を守るべきではないか、とどうにもならぬ怒りを見えぬものにぶっつけるのであった。統帥部は命令一通でことは変化しうるけど、家族・家業を投げうって召集(この場合は「根こそぎ召集」―筆者註)された兵は、黙もくと命令にしたがうのみである。」(「ハイラル国境守備隊顛末記」)

 その上、「軍の幹部や、満鉄や満洲国の要人たちは、家族を絨毯爆撃の下の日本本土においておくのは危険であるからと、わざわざ満洲へ呼びよせたりしている。」(「ソ連が満洲に侵攻した夏」)

 昭和19年より南方へ十二個師団(25万人)を送り出してきた関東軍は既に「張子の虎」であり、「根こそぎ召集」により員数合わせは行ったものゝ、「泣く子も黙る」と自画自賛していた実力は画餅になり果てゝいた。

「対ソ静謐保持」という指示が発令されたのは、昭和16年12月3日付け大本営陸軍命令(「大陸命」)によってだが、「大日本帝国陸軍」という幟と、「陸軍最大の敵はソ連、海軍最大の敵はアメリカ」という当時の掛け声に符合しないこの指令は、「関特演」というカムフラージュを経て昭和16年7月2日の御前会議が南進論で決定したことによるが、満洲で祖国が自国民を捨てるに至った遠因となったのではないか?

 この奇策を踏襲して、昭和20年5月30日に発令された大陸命第1339号~第1341号(「満鮮方面対ソ作戦計画要領」)では、「概ネ、京図戦以南、連京線以東ノ山岳要域ヲ確保シテ長期持久ヲ策シ、帝国全般ノ作戦ヲ容易ナラシム」とあり、「王道楽土」を売り物にした満洲国を一顧だにしないと国は厚顔にも宣言し、更に昭和20年8月10日付け大陸命第1374号~では、全満洲が放棄される(「対ソ全面作戦の発動」「関東軍の主任務は朝鮮の保衛」「作戦の進捗に伴う総司令部の適時転移」≒状況を判断しながら退却せよ)ことになった。

当初は静謐を保つために避難を敢えてさせなかったのが、この時には『なんともいたし方がない。』と諦めている。

北方静謐保持のために、30万人近い開拓民を放置して死に追いやった関東軍…。軍は絶対に強いもの、ありがたいものと信じて、供出に励んでいたおれたち開拓民はなんというバカだ。出来のよい野菜だけを選び、兵隊さんの食べ物だとひとつひとつ念を入れて洗っていた清乃(8月13日未明、二人の子供・母の志保と共に暴徒【満人】の喚声の中で自害)の顔が思い出された。

 「あわれでならなかった。」(「墓標なき八万の死者」)

 「昭和20年8月のソ連参戦時、満洲各地に住んでいた民間人約155万人の一割強、約17万6千人が帰国を果たせず死亡した。」(「沈黙のファイル」)

 満洲でソ連と砲火を交えるなら、当然のことだが陸戦となる。しかし、陸軍が師団以上の兵力でソ連と交戦したのは、シベリア出兵(1919年~1922年)と張鼓峰事件(ハーサン湖会戦:1938年)であったが、どちらも本格的な近代戦とは言い難く、ノモンハン事件(ハルハ川会戦:1939年)では第二十三師団15,140人の兵力のうち11,958人、実に79%もの損耗率を記録した。(数値は、戦史叢書・関東軍【1】)

 ハルハ河では神風などは吹かず、「観念的な自軍の精強度に対する過信が、上下を問わず蔓延していた。」(「失敗の本質」)

と言われ、大兵力・大火力・大物量主義の敵に対する近代戦の術はなく、神懸かり的な神風を妄信しながら大敵を侮った結果の敗戦であった。

 更に、第一線部隊の連隊長クラスが戦死または自決したため、貴重な経験として活かされることなく、対ソ刺激回避のための「対ソ静謐確保」、言い換えればソ連を敵に回したくない、戦いたくないという陸軍の暗渠として確立されていったのではなかったか?

 「ソ連軍を刺激しないための『静謐確保』が関東軍に与えられた任務だった。国境近くの軍や開拓団がいなくなり、ソ連が無血進撃してきたら大変だからね。悪く言えば案山子の役割をして、国境地帯でのこちらの存在を誇示する必要があった。」(「沈黙のファイル」)

 終戦73年を経ても誰にも振り返ってもらえないどころか、ご遺骨を収集しようにもその地域さえ絞り切れない無念の魂の主が、果てしない地平線が続く満蒙の地に佇む案山子に置き換えられていたとは、ソ満国境の開拓民は「対ソ静謐確保」の号令の下で「楯」にされたと言って過言ではない。

 大東亜戦争末期の不可解な軍部の動きとして、ソ連への停戦仲介依頼があるが、更にそれらと関連すると考えられる以下の奇妙な行動が、疑念を更に駆り立てゝくれる。

  • 種村佐孝大佐 モスクワ出張(S19.2.5~S19.3.30)
    •  モスクワから帰国してすぐの4月4日、木戸幸一内相を報告のために訪れ、木戸内相に「…大いに獲るところありたり」と言わしめている。

 更に、「今後の対ソ施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」は、昭和20年4月29日に種村大佐によって作成され、東郷外相にもたらされて米英との和平仲介工作を推進する基盤となった。

  • 瀬島龍三中佐 モスクワ出張(S19.12.末~S20.2.24)
    •  瀬島中佐は「影の参謀長」と呼ばれた人物で、戦後ソ連に約60万人が抑留された件に関して、ソ連側との密約があった「誓約密約者」との指摘もある。
  • 外務省・都留重人氏 モスクワを訪問(S20.3.~S20.5.)
    •  治安維持法で検挙された後、ハーバード大学に留学し、開戦による帰国後、夫人の伯父にあたる木戸幸一内相(共産主義が国体護持に影響しないとの論者)の紹介で、外務省欧米局アメリカ課に嘱託として入省。

 ソ連仲介和平が本格化していた時期だけに疑念も多い。

「ラストヴォロフ事件」(1954年)のユーリー・ラストヴォロフKGB中佐は、『(抑留中に)十一名の厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した。』と亡命先のアメリカで証言したが、その十一名の中に種村大佐・瀬島中佐の名前があり、元々共産主義者であった都留氏も併せて、三名のクーリエは「敗戦革命」の使者?との疑念が拭えない。

 戦後、地球上の大半の「戦争責任」を背負わされ、一方的に「極悪非道」の汚名を雪がれてきた我が祖国は、その擦り付けられた罪の多さ故か、反論するどころか捏造された歴史まで鵜呑みにするしかなく、永らく臥薪嘗胆の中で暮らしている。

 74年目を迎え、各国の情報公開もあり少しずつ牛歩のようではあっても、真の歴史に改められつゝある。岸信介元総理大臣は、昭和25年の時点で「…私まで含めて、支那事変から大東亜戦争まで指導した我々は、言うならば、スターリンと尾崎(秀実)に踊らされた操り人形だったということになる。」(「戦争と共産主義」)と序文で懺悔している。近衛文麿公も「何か眼に見えない力にあやつられていたような気がする。」(「戦争と共産主義」)と述懐したとされているが、ボリシェビキ寄りのアメリカ人たちと結託し使嗾した成果であったのであろうか、「アンコン(揚陸指揮艦)艦上の悪辣な陰謀」(「近衛文麿『黙』して死す」)に対してさえ貫いた「黙」はいったい誰の為の、誰の所為によるものであったのだろう?

「政府中枢にコミンテルンが浸透し、水面下でソ連と気脈を通じる人物がいたのなら、理解できよう。(ソ連に働きかけた米英との和平仲介工作は:筆者註)愚策ではなく、共産主義国家建設に向けた『敗戦革命』工作だったと解釈すれば筋が通るのだ。(「正論」2013年10月号 「日本を赤化寸前に追い込んだ『敗戦革命』工作」:岡部伸)

だとすればあの満洲での「根こそぎ動員」さえも、ソ連からの戦後の労働力確保という要望に呼応した手回しの良い、事前準備であったのかと邪推すれば平仄は整う。

 「最初に独善的に立てた作戦があり、そこから外れた情報は頑なに拒絶されたということだ。…(中略)…日本型官僚組織に潜む病弊は根深い。敗戦を決定づけるヤルタ密約の最高機密を恣意的に葬り去った日本の統帥部は、開戦前から常闇の中にあった。」(「消えたヤルタ密約緊急電」)

 ストックホルム駐在武官・小野寺信少将が得た、ソ連の対日参戦情報を暗号打電(大本営参謀本部次長・秦彦三郎中将宛て)したにも拘わらず、大本営には届いた記録さえもなかったという奇妙な史実だが、この時点(昭和20年2月中旬)には大本営は共産主義に侵蝕されていた為に握り潰された、と考えればさほど不可解ではない。岡部信氏が戦後74年目を迎えても尚、捏造され脚色された歴史を背負わされ洗脳され続けられながら、一身に社稷を憂うるでもなく、歪んだ観念的快楽と誤信を排棄しようともしない日本民族に、匕首のように妥協のない怒りを込めて迫ってくるようだ。

 『ヤルタ密約の内容が日本に洩れていたならば、満洲にいた多くの日本人が救われたであろう―ということで、今日なお残念に思われることである。「引揚者」という言葉も死語になりかけているが、あの人たちの悲劇はたぶん回避されたかもしれない。「戦争孤児」もすべてはそこから生じたのであった。』(第22回山本七平賞での故・渡部昇一氏の選評より)

 渡部翁の言葉をお借りするまでもなく、満洲での悲劇は言うに及ばず、広島・長崎の原爆禍も違った歴史となっていたかも知れないと思うと、無念でならない。我が国が、終戦前の半年の間に約100万人もの同朋を失ったことを思えば、このヤルタ会談からの歳月が悔やまれてならないのを、鱓の歯軋りだと笑われるのだろうか?小野寺信少将が、この暗号電が届いていなかったことを知ったのは、1983(昭和58)年になってからだと言われている。多くの手記に残された満洲居留民の方々の絶望的な怨嗟が、関東軍に向けられているのも当然だろう。

 確かに、政府・大本営と関東軍のメンバーのうちの幾人かは、大東亜戦争開戦前から、入念な準備を施しながら共産主義に降伏し、日本国民を虫けら同然に扱ったのであり、その顕著な縮図のひとつが統制された満洲だった。

 その一方で、『私の罪は、私が大陸鉄道司令官だったにも拘わらず、満洲の避難民に輸送(列車)を確保できなかったことです。私は死ぬしかありません。』(草場辰巳中将:極東国際軍事法廷に護送4日目―昭和21年9月26日)と手帳に書き遺して自決されたり、『地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。』(晴気誠少佐:参謀本部敷地内にて割腹―昭和20年8月17日未明)は順子夫人に宛てた遺書で、サイパン島陥落により本土がB29の空襲を受けることになった担当参謀としての責任を感じての自決と言われている。

篠塚義男中将(陸士十七期)と上村幹男中将(ハバロフスク収容所で自決―昭和21年3月)のおふたりが、国民及び満洲住民に対しての謝罪を遺書に書き湿されたし、昭和20年の夏に自ら命を絶たれた軍人・軍属は568人に上ったことを、多くの英霊・先人の名誉のために追記させて頂く。

 関東軍がお得意の「独走」を捨て、「遁走」に転じたのは共産主義に蚕食されていたからであり、もう一方の原因となったのは、「陸軍のなかには、強敵だったソ連とは戦いたくないという心情が芽生えていたのではないかー」(「転進 瀬島龍三の『遺言』」)との指摘があるが、直言すれば大本営・関東軍の中枢がソ連に怖気づいていたのだと、「楯」にされ非業の死を遂げた開拓民をはじめとする25万人にも及ぶと言われる無念と怨念を代弁して断じたい。

 既に述べた通り、昭和20年5月30日に発令された大陸命によって、満洲の四分の三以上を大本営は棄てたが、前年の昭和19年9月16日には最高戦争指導会議で独ソ和平を含む日ソ関係改善案の対ソ提案が決定されており、この大陸命発令までの間に瀬島中佐と外務省の都留氏がモスクワを往復したのは、「敗戦革命」の推進と準備が主な任務ではなかったか?冷静に振り返れば、大東亜戦争が開戦した頃から終戦までの間、満洲の居留民は一度も顧みられることはなかったのだ。

 その間、コミンテルンによる関与が明らかになっている張作霖爆殺事件を含む時代から、「敗戦革命」がシナリオ通りに進められていたとすれば、開拓民の幼い命に、軍人勅諭に謳われた「慈愛を専一」(慈しみ可愛がることを第一)する考えなど寸分もなかったのも頷け、いかにも共産主義らしい。

この世に生まれてきたことも識らず、この世の感覚さえも感じないまゝ死んで逝った嬰児や胎児の生涯は、満蒙の地に殆ど記録すらされていない。その上、「今さら致し方なし」と事務的に無責任に放置されたまゝになっている。(20万6070柱≒84%:残存遺骨概数/厚労省 )

 「逃避行をはじめて最初に犠牲になったのは乳呑み児です。

 母親は食べ物がないから乳が出ない。出ない乳をしゃぶって乳呑み児はバタバタと死んでいきました。一週間から十日くらいで…。私の子は生まれて三か月でしたが、子供のためにと、何でも食べました。木に登ってサナシの実を採ったり、ネズミまでつかんで食べました。…(中略)…目をそむけるほど悲惨だったのは流産と早産でした。開拓団にはお腹の大きい婦人がたくさんいましたが、道路の真ん中で、髪を振り乱し、気狂いのようになって生んでいるんです。そして生み落とすと二、三時間休んで、生んだ赤ちゃんを布にくるんで歩き出すのです。そのまま倒れてしまっては、団に見捨てられてしまうでしょ。その姿…、想像もつかないでしょう。」(「死の逃避行」)

 「産めよふやせよ、といわれた開拓村は、多くの家が子だくさんで、無条件で喜ばれた。僅か四日、この世への到着が遅れたばかりに、初めから厄介者で、産湯をつかわしてもらえず、おしめひとつない。」(「墓標なき八万の死者」)

「童養媳(トンヤンシー)」は、息子と同年代の少女を嫁にすることを目的に(中国人が)買い育てることだが、生まれ落ちても乳も飲めず、祖国ではないとしてもこの世の景色も見ることなく、名前さえ呼ばれずに死んで逝った、数えても貰えなかった子供たちに比べれば、いのちを長らえただけ幸運だと言いたいのかも知れない。

これら祖国を失った残留孤児と併せ、非業の死を遂げた「墓標なき八万の死者」を含む24万5400名(平成29年7月末、厚生労働省調べ:概数)を超すと言われる戦没者は、国と国策に応じた日本国民を裏切って暗躍し、何食わぬ顔で戦後までも生き抜いた共産主義に拝跪した「軍人さん」たちのその目に、どのように映っていたのだろう?

大人たちなら、人伝に断片的であっても語り継いでくださってはいるが、ひと言の不平すら残してくれなかった幼い御霊は、何処でどのように弔えばいいのか? 逃げた彼らは鬼籍に加わった後、「ふるさと」を奪い取った日本の子供たちにどのように詫びているのだろうか?

「祖国根元在国史令明」 過去記事一覧

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